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お前はラブを「やる」のか?

 アドベント交換日記5番目を担当する唯物論的人間ラブ派の鳥居です。

 ラブについては日々考えていますが、考えているうちにちょっと困ったことに気がついてしまいました。

 人間、誰でも1つや2つは気に食わない存在とか、どう対処したらいいのかわからない対象を持っているように思います。
 私にはずっと態度を保留してきた三大属性というものがあり、それが「ポリアモリー」「唯物論者」「サイコパス」の3つでした。

 一個ずつ解説すると、
 ポリアモリーは恋愛をやるスタンスの一種です。モノアモリーの逆。一対一の恋愛関係を築くモノアモリーと違って、ポリアモリーの人は複数の人間を同時に愛します。一対一ではなく一対多であったり多対多であったりする。そういう社会もあります。それって浮気なんじゃないの? というと違って、付き合う前からそういう約束をするらしい。浮気が責められるのは約束違反であるからで、だからポリアモリー間でも浮気はありうる。それにしてもそんなのアリなのかな、って感じですね。

 唯物論者はこの世は物質だけだっていう立場ですね。神とか魂はない。そう考えると死後とか当然ないよね? それで弔える? お前友達が死んでもそう言うのかよ?

 サイコパスは犯罪心理学用語で、反社会的人格の一種。良心と共感性が欠如している(らしい)人々です。
 最近はよく悪口で「あいつは話が通じないからサイコパスだ」とか言ったりするけど、良心がもともと欠如しているなんてわかるんだろうか。サイコパスの脳を研究してた神経科学者が自分の脳を調べてみたら、自分もサイコパスの脳をしていたっていう話もある。多分世の中にはわりと居るし、その中のほとんどは特に犯罪に手を染めずに平和に生活してるんだろうなあ。

※Wikipediaにロバート・D・ヘアによるサイコパスの定義が書いてあります。

 と、保留どころかあまり好感を持っていなかったわけなんです。関わらずに済むなら関わらないで生活したかった。

 ここから本題なんだけど、私は人間のことめちゃくちゃ好きなんですよ。
 生きているだけで記憶を積み上げ小さな脳に圧縮していくさまが愛おしくて仕方ないし、その人間が作り上げた文化は美しすぎて見飽きることがない。
 わけわかんない環境や文化の中で発達した意味不明の作品とかでもその素晴らしさは変わらなくて。光の乏しい環境でひねくれて育った木ですらその生命力が美しくあるように、どんな意味不明の欲望が作り上げた作品も、あるものをこの世界に存在させたい、「私はこれが見たかった」という意志が存在する。なんて鮮やかなんだろう!(守ってほしい倫理はもちろんあるけどね!)
 私は生きているだけで何かを作り上げてしまう人間という存在を面白いと思っているし、そんな人間を生み出した生命や物質のことを最高だと思っている。

 こんなに人間のことが好きな奴が、そんな面倒な属性を持っているわけがない。そうだろ?

 ところで、
 「友達のこともめちゃくちゃ好きなんだけど、恋人と何が違うのかあまりよくわかってないしある程度仲よければ手を出しそうで危ない」(?)
 「人間のことは物質だと思ってるけど物質は物質で最高だから問題はない」(?)
 「最高の家を作りたい。というか自分の設計した空間に人をぶち込んで何が起こるのか見たい」(??)

この3つは全て私の発言なんですが、なんか怪しくないですか。

 そう、お察しの通り、態度を保留してた三大属性は全て自分のことだったんです。はいビンゴ揃った!!!おめでとう! どうする? 死ぬか? 「しかし人間は自分自身からは逃げられない」(CV. キェルケゴール)

 これに気づいてしまったのはつい最近のことで、それでしばらく私は困ってしまっていたんですね。
 もちろんそう思った根拠はこの発言だけではなく、他にもいろんなことを考えたり喋ったりするんですが、この3つの言葉を使って考えると、生活で引っかかってた部分がきれいに説明されてしまう体験をしたんです。
 ポリアモリーに関しては、なぜ日本では一対一で恋愛をやるのか、群れみたいに8人ぐらいでわちゃわちゃ暮らしたほうがずっとよいと思っていた。たった一人だけを愛するのってロマンティックかもしれないけど、そいつが死んだらどうするんだ? という考えを持っていたし。
 唯物論に関しても、自分から離れたものへの祈りに意味があるとはなかなか思えなかった(もちろんだからといって祈りをバカにするわけではない)。この世は物質でできていて、人間だってそうなんだけど、そう言ったって我々は何も失わないんですよ。人はもっと物質に感謝したほうがいい。不滅は物質の中にある。
 自分サイコパスかもなーって思ったことに関しても、よく考えればあらゆる良心は学習していくものだと思っていたし、浮気の何が悪いのか全然理解してなかったし(もちろん悪いとわかってないことと実際にそれをやるかは別の話だけれど、浮気された人が怒るのをずっと不思議に思っていた。だって人間は人間を所有できなくないですか?)、社会や関係の中で当たり前とされている良心は「直観で理解」するものではなく、周りの様子に合わせて「よしなに合わせとく」ものだと思っていた。

 うーむ、どうやら私はポリアモリーの唯物論者のサイコパスなんじゃないか。いや、キャラ濃すぎるだろ!

 新しい自己認識にたどり着けたことは良いけれど、その内容はことごとく自分に都合の悪いものだった。しかもそうと気づいてしまえば、自分がなんとなく引っかかってた事例がきれいに説明されてしまう。受け入れてしまえば自然だし、冷静に考えればどれもそう悪いものでもないように思えてきた。それに、こんな自分は嫌だ!って言ってやめられるものでもないからね。

 しかし、あまりにも……そう、生きづらすぎないか?
 ポリアモリーはポリアモリーらしく、唯物論者は唯物論者らしく、そしてサイコパスはサイコパスらしく生きるしかないんだろうか?

 とりあえずポリアモリーについてだけでも人の意見を聞きたい。と、愛の伝道師みたいな知り合いに相談したところ、いいことを言ってもらえました。

 「いや、あのね。みんなモノアモリーが当たり前みたいな顔してるけど、ポリアモリー、いるから! でもモノアモリーやってた方が社会的制度的に得をするようになってるから、それに合わせて生きてるんだよね。自分の属性がどうとかではなく、どう振る舞うかで見えるものが決まってるの!アイデンティティじゃなくてパフォーマティブなの!」

 なんていいことを言うんだ! ジュディス・バトラーじゃん!

 どういうことか? 「私はこういうアイデンティティだとわかってしまった。じゃあ、そのアイデンティティ“らしく”行動する必要があるんだろうか?」という部分で私は困っていたんですが、そんなことはもうフェミニズムやジェンダー論によって考え尽くされていたわけです。

 だから問題は「自分ポリアモリーじゃんどうしよう」じゃなくて、「お前ポリアモリーをやんのか?」って話。

 「やる」ってことはつまり実践するということで、願いを叶えるために自分がどうにかするという意味。
 ポリアモリーを「やる」のだって大変で、パートナーが複数いるんだったら、その一人ひとりに関係性についてきちんと説明しないといけないし、トラブったらちゃんと誠実に解決しないといけないし、パートナー同士の人間関係に対してのスタンスも決めておかないといけない。「やる」とは、信念や最高の生活のためにだるいことをきちんとできるのか? って話。

 ポリアモリーってわざわざ言ってる人は社会に逆らってまで何をしたいのか? というと多分社会がマシになることを目指しているんだと思う。社会をかき乱して多様性を増やそうとしている。ただポリアモリーな性向を持ってるだけでは、社会で当たり前とされてる属性を勝手に当てはめられてしまうだけで終わる。「ポリアモリーです、よろしくな」ってその生き方を「やる」ことでようやく「君は“そう”なんだね」ってなる。

 目が開いてみると、この「やんのか理論」はかなりいろんなことに応用できることに気づく。

 ラブだってなんとなく好きってだけではラブは頭蓋骨に収まって終わり。まあそれで終わりでも構わないんだけど、ラブをやるとは、それについて話したり書いたり世話をしたりすることなんだと思う。放っておいたら死ぬかもしれない存在を大事に放っておくのはラブじゃない(もちろん過干渉の問題とかあるし、ラブ自体が無条件に良いものだとは言ってません)。

 なんだってそうだよ。ほんとは誰も働きたくないんだけどさ、マジで「働かない」をやるには「働かない」をやるしかないし、そのための戦略もいるってこと。大抵の人はしゃあねえなって思いながら働いてる。あえて働きたくないを口に出しても得しないからみんな黙ってるけどさ。

 もちろん多数派だったり社会で当たり前とされてる属性なら、そもそも「やんのか」なんて聞かれないわけで、「やる」ことを要求されるのは社会の悪ではある。「ええ!?異性と結婚するの!!?!?!??」とか「ええ!??大企業に就職するの!?!?!?」なんてよほどのことがない限りおばあちゃんに言われたりしないよね。
 ちなみに社会はズレてる奴に厳しいので、「やる」奴は嫌でも戦わざるを得ない。喉元に匕首突きつけられて「お前マジでやんのか?」って聞かれてるようなもんだよ。
 困ったね、ただ女性とか黒人に生まれただけでも「やる」しかなくなって、それで戦う羽目になったりするもんだから……。

 それで、お前はポリアモリーや唯物論やサイコパスをやんのか? お前はお前の見たい景色を見るために自分や他人で実験を続けるのか? マッドサイエンス、やんのか? ってことなんですが。
 その点はあと3ヶ月ぐらい保留させてほしい……。
 「やる」は下手すると加害になるので、そのへんについてはよく考えておきたい。

 ただ、世界をマシにできたり(それは自分と似た人間が生きやすい世界をつくることにつながる)、見たかった景色を見られるのも、「やった」奴だけなんだと思う。

 最近偉くて楽しそうな人と何人か会ってわかったことがある。
 偉くて楽しそうな人は、自分の願いを周りの人がなんとかして叶えてくれるような場を構築できてるから楽しくて、私はそれが権力があるからそうできるんだと思っていた。けれども、どうやら違うようだ。
 あいつら、見たいものを見るために、ちゃんと権力を「やって」いるんだよ。人を集めたり人やものに払うお金を引っ張ってきたり、こういうものが見たくてこういうのが違うってちゃんと説明してる。
 たった一人でものを作る場合だって一緒で、ほんとは何も作らなくても生きることはできるはずなんだけど、わざわざ手間をかけたり脳を使ったりして自分の見たいものを現前させようとしている。そいつらは「文学」や「漫画」や「映画」を「やって」いる。
 偉いし、途方も無いよ。そして私はそういう人間を最高だと思えて仕方がないんだな。

 さて、次回は一周して再び「クソみたいな世界を殴る血まみれの拳」山城さんの番です。私の認識では、「フェミニズムをやっている」人だと思っている。
 山城さんは1番目の書簡で「フェミニズムに救われた」と書いていたけど、やると救われるの間には一体何があると思いますか? やるから救われるのか、救われたからやるのか、それとも両方なんだろうか?

この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー6日目の記事です。

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