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「わかりあうこと、違うままでいること」怪獣歌会の往復書簡【7・8(最終回)】

第一往復での「人によって面白さが違うのはわかる。その断絶を超える面白さについて考えたい」という鳥居の提案は、「その話は興味がない」と川野に早々に却下されてしまいました。
しかし、脱線していった先には、言語と対話をめぐる豊かな世界が広がっていたのです。
言葉は人間にとって何なのか、むしろ人間は言葉にとって何なのか。
人の繋がりを作ることは多様性を作ることなのか、それともそれを壊してしまうことなのか。
長い長い脱線を経て最終往復、二人はようやく断絶の話に帰ってきました。
今度こそ、二人は断絶を超えることができるのでしょうか……?

この文章は怪獣歌会の鳥居と川野の間で交わされた往復書簡の第7・8回、鳥居と川野の手紙を収録しています。

以前の往復書簡はこちらからどうぞ(最終回からでも楽しく読めます)
https://note.mu/quaijiu/m/m8a3a640a2809

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早くも最後の往復で、名残惜しい気持ちがあるな。

定形が他者ってのは君の手紙を読んでの発見だった。
最近ずっと定形さんとやっていけなくて困っていたんだけど、他者なんだったら、うまくやっていけない時期があるのも当然のことなのかもしれない。

君の手紙で、君が言葉で創作をする理由が説明されて嬉しいです。なんとなくわかってきた。君が言葉を使うのは、きっと世界と自分への誠実さあってのものなのだろうと思った。好きで得意なことしかやらない、というのは、【4】でも言ってたことだしね。きっと君の言葉はその誠実さに苦しむこともある(あった?)かもしれないけれど、その誠実さこそが君の言葉を磨き抜いたんだろうな。

君は私にできることが多いと言うけれど(それは光栄だな)、実はたぶんそのことでも私は困っていて、どういうことかというと、変にできることを増やしてしまったばっかりに、自分が何が得意なのかわからなくなってしまっているという部分がある。
たとえどれか一つに決めないといけないときが来ても、本当にこの選択でいいのか迷い続けるんだろうなと。そしてどれか一つに決めきれない自分にも、決めなくていいのか、という焦りを感じている。
たぶん私は、言葉を使うこと自体がそんなに得意なわけではない(ご存知の通り喋るの全然上手くないからね)、けれど、どうして言葉で創作をするんだ、というと、多分あらゆる媒体(風景や映像や音楽や歌とか)と比べて、言葉はもっとも遠くまで運んでいけるし、もっとも遠くまで連れて行ってくれるものだと思っているからなんだと思う。
そりゃ最近はスマホあるし、風景は写真でバシッと撮って見せれば、遠くにいる人にも見せることができる、動画もそうなんだけど。けれど言葉って口で言えたり文字で書けたり、なんというか、出が速いんだよね。例えば交響曲を伝えるには、楽器とか歌の訓練を受けた人でないと大変なんだけど、短歌とかキャッチコピーとかならたった31文字程度覚えるだけで再現できるでしょう。節をつければもっと覚えやすいかもしれない。言葉は運ぶのに軽いし(喋れば伝言できるからね)、書き残しておけば記憶も曖昧になりづらいし。
伝える人と伝えられる人の間に共通認識や共通言語がないと厳しいって部分は、むしろ相手の共通認識を利用できるという部分の裏返しなんだろうと思う。
遠くに連れてってくれるというのも、その“軽さ“によるもので、言葉があれば宇宙船を飛ばさなくても地球外の景色を想像できるみたいなもので、世界に私一人しかいなかったら絶対わからなかったような概念までわからせてもらっているという恩がある。やっぱりその点、言葉に報いたいと思っているのかもしれないなあ。

ガラパゴスの比喩はすごく腑に落ちました。謎の進化遂げたいしだれにも荒らされたくないよね……。けれどガラパゴスで生命が繁栄するためには、まず初めにどこかから生命の種が飛んでくるのが必要だったように、誰かの声をまず聞いて、言語を覚えないと自分の中に言葉は生まれないし、なんだろうな、大事なのは自分の周りに海をもつことなんじゃないか。と、言葉遊びみたいに言ってみるけど。うーん、謎の進化を遂げるのはむずかしいな。君の話を聞いていると、人間よりは言葉と関わっていたいんだなあ、と感じるよ。

人間の関わりついでに、人が影響を受けることについても考えたんだけど、

私は人と人の出会いというものを考えたときに不幸なイメージのほうが真っ先に出てきてしまうように思う。
AとBが出会ってCが生まれるというより、AとBが出会って両方Aになっちゃう感じ。人がたくさん集まったら多様になるのではなく平準化されてしまうイメージ。人と人が出会うと権力や同調圧力が生まれてしまうから。

この平準化も確かにあるんだけどさ、たとえ表面的にはAとBが出会って両方Aになっちゃったように見えても、よく見るとAAとBAなんじゃないかなーという願望がある。人には記憶があるし、今まで会った人や環境が地層みたいになってその人を構成しているはずなので。人の意志に反してJで埋め立てに来たらそれは暴力だと思うし、そこから逃げる方法はきちんと考えたりしないといけないんだけど。

それと関係して最初の問い、ネットと雑誌の短歌の違いというか、人によって考える面白さが違うという話題に戻るんだけど。なんか今のでちょっと光が見えてきたな。
つまりABCDみたいな人とZXVVみたいな人がいて、両方見慣れたものしかわからない。Aとかの人はA寄りのものを作っちゃうし、Zとかの人はZ寄りのものしか認めなくて、そういうのを断絶と呼んでいた。そこにいやいやDもDで最高だしよく見ればX要素もあるとか言いたいし、GとかHとかもあるし、実はαとか3とかもある、さあ君はどんな文字を書いてくれるのかな?というのをやりたい。

私は起床が苦手なので人間の意志の力をあんまり信じていなくて、人をどうにかできるのは環境や空気の方だと考えています。で、Jが最悪の環境だったとして、ずっとJにいる人にはそこが最悪だってわかんなくて、最終的にJに埋まってJしか言わないJの権化みたいになってしまう。そういう悲しみを避けるためにも、いやAとかIとかあるよ、逃げ出し方はPだよ、みたいなのを伝えるのは大事だと思っています。やっぱ繋ぐことに救いを見出してしまう……。

君と書簡をやるまでは最強の文字を探してうーんAか?それともZをやったほうがいいのか?それともあいだのNか?みたいに迷っていたんだけど、たぶん人に伝えるための面白さを考えるという点では違って、Aが最高だと思ってAを届けたいならAを面白がってる姿をきちんと見せたほうがよいのだ、というところまで考えが進みました(考えに前があるとすれば)。そこでAを「わかってもらう」必要はあんまりなくて、Aという可能性があるということを知ってもらえるだけでも万々歳なんだと。

その例として、【2】で君が言ってくれたこの部分、

作者であっても自分の歌のすべてがわかるわけではないーーというか、どんな人であっても一首の歌のすべてを理解することはないと思います。ある歌を面白いと思う人たちが、みんな同じところを面白いと思っているわけではないだろうし、誤解に基づいた面白さというのもあるでしょう。
ある歌がわかること、その歌を面白いと思うこと、その歌のおもしろさが「わかる」こと、それは全部別の話ではないでしょうか。

こういうことをきちんと言うことが、面白がり方を見せているということなんだろうと思ったよ。だいぶメタっちゃメタだけど。

うーん、これでなんとなくわかってもらえて、しかも興味を持ってもらえたらいいんだけど。でも君が面白がらなくてもまあいいや、君は君で君の愉快さを持っているからね。あと前にも言ったかもしれないけれど、君は手紙が上手だし、いい手紙を書くなあと思いました。

私はたどり着く場所もあったし、なによりこの一週間楽しかったしで、かなりこの往復書簡には満足しています。まだまだ話せることはあるね。間違いない。

けど糸電話は気が進まないなあ、なぜかって、話してる二人しか楽しくないからね。今度はDJとかつけてライブでチャット座談会とかやってみようか? 盛り上がると感動的な音楽が流れるの。

最後の質問。
君は誰にも記憶されないで失われるものが、そのまま消えてしまうのが怖いと書いたけれど、話し言葉は響いた後、誰かが記憶したり記録したりしない限りわれわれのような有限の存在には見えなくなってしまうものだよね。話すことは本質的に消滅を含んでいるし、書き残すことは忘却への恐れを含んでいるものかもしれない。でも君は私の印象だと、よく喋る人でもあり、よく書く人でもある。その辺どうなんだろう。話すことと書くことに、違いはありますか?(最後にまたでかい質問をしてしまった)

2018/07/01 とりい

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最後の手紙となるとなんだかまとめっぽいことを言いたくなってしまうけど、どんな言葉も途中で始まって途中で終わるんだよね。

定型さんはね、高いクオリティを要求してくる、ちょっと頭の固い編集者みたいなイメージだよ。このひとがいなかったらできなかった作品ばっかりなんだけど、時々息苦しいよね。

得意なことが多くて一つに決めきれないという話、無理に絞らなくていいんじゃないかなあと思いました。「ここからここまではプログラミングで、ここからここまでは短歌」って截然と分けられるものではほんとはなくて、全部つながっていると思うから。君のできること、知っていること、してきたことすべてが君を形づくっていて、何をやるにしてもそれらすべてが底流をなしているんじゃないかしら。プログラミングができる人の作る短歌と、できない人の作る短歌はきっと違うと思う。そこに優劣はないけれど。私も、私のできないこと、知らないこと、しなかったことでできていて、それでいいんだと思ってる。
無責任な話かもしれないけど。何しろ私は選択というものをほとんどした覚えがないの。いつも「自分はこういう人間で、これをやる」って思ってた気がする(ほんとうは意識していないところでもっと流動的なんだろうけど)。だから、いつも「気分は背水の陣」みたいな感じです。

言葉が海だとしたら、人間はその中に点々と浮かぶ島なのかもしれない。直接は触れ合えないけれど、海を通じて繋がってはいて、何かが運ばれてきたりする。
そういう夢をいつか見たな。そのときは、海は違うものの比喩だったような気がするけど。
私は人間よりは言葉と関わっていたい、というのはそうで、でも、言葉と人間を二項対立にする必要はほんとはなくて、言葉は人間が発しているし、人間は言葉でできているのだから。社会の中で暮らしていると、「人間」ばかりが前面に出てきて、そういうとき、人間はいらない、言葉だけでいいの、って叫びたくなるけど。
だから、たとえ本の海に囲まれた島に閉じ籠もって謎の進化を遂げてても、そのむこうには人間がいるし、人間は本でできてるのだから、別にいいんだなって思いました。
……何に急に安堵しているのかというと、私が「自分の興味関心にのみ従って生きる」を実行しようとする中で、しょっちゅう「人間」にぶつかっては「興味なし」に分類して、でもほんとうにそれでいいのかなあと悩む、というのが割と長いスパンでの最近の課題で。

前回の手紙で、究極的には読者って必要ないのでは、ということをちらっと書いたけど、それも、別にどっちでもいいのかもしれない。
言葉そのものが生身の他者を要求するかどうかはわからない。作品は作ったらそこで完成で読者の存在を必要としないのかもしれない。内在的には。
でも外在的には、他者への贈り物として差し出す意味はあるのだろうと思う。その言葉が飛び火して他者の言語体系を変えていったらそれは面白いし。それに、私はこっちをやる、ほかのことはほかの人たちに任せる、と言う以上、踊りや音楽やコンピューターや、生活や事務や人付き合いや、そういう私にはできないことをしてくれる人たちのいるこの世界に、私のなしたことも返していくのがフェアな気がするよね。
結局、恩返し、ということになるのかなあ。

だから、同じことを何度も言ってるかもしれないけど、言葉と私の戯れのようなこの手紙が、それでも君への贈り物になるなら私は嬉しいのです。

繋ぐ、というときに君が考えているのは、共同体と共同体を繋ぐということではなくて、人と人を繋ぐってことなのかな、と段々わかってきました。島と島をくっつけて大陸にしちゃいたいという話ではなくて、島と島の間に船を渡したり、紙飛行機を飛ばしたりしたいという話だよね。違う?
繋ぐ、というとき、多を一にする(すべてを平準化してしまう、自由を狭める)繋ぎ方と一を多にする(ひとりの人に多様な選択肢を見せる、自由を広げる)繋ぎ方があって、君が目指しているのは後者なんだなと思いました。
その際に大事なことは、多様な選択肢を見せるためにも、その過程で多様性を潰してはいけないということで、私は多様性の保護のためにも基本的に島に閉じ籠もる担当でいようかなと思ってますが、君と私の考えてることはそんなに遠くなかったのかもしれないね。
君が繋ぐことに希望を見出すのはきっと妥当なことだと思う。君は実際、人と人を会わせるのが上手いから。一人の人と一人の人を、この二人は話が合いそう、かつ、一方が他方を抑圧したり搾取したりしない、という基準で選んで引き合わせることを君は実際にできているから。

たとえ表面的にはAとBが出会って両方Aになっちゃったように見えても、よく見るとAAとBAなんじゃないかなー

この話には希望を感じました。そうだといいなあ。

最後の質問について。

 君は私の印象だと、よく喋る人でもあり、よく書く人でもある。

よく喋るかなあ。君とだからじゃなくて?
私は歌会とかだと「このことは絶対に言っておかなきゃ」みたいなことが多くてだいぶよく喋るんだけど(歌会ではいつも喋りすぎないようにがんばってる)、その後の懇親会とか飲み会とかになると何も話すことが思いつかなくて静かにしてるタイプです。あと一対一だと喋るけど三人以上いるとだいぶ無口になる。
そういえば、「君は普段はふわっとした話し方をするけど、怪獣歌会の人たちと一緒のときはスマッシュの連発みたいな話し方になるね」と友達に言われたことがあって面白かった。怪獣歌会はスマッシュ連発する人が多いからね(君は違うけど)。

でも私、話し言葉が消滅していくという感覚はないかもしれない。話したことは私が覚えてるし、相手もきっと覚えてるでしょう。すべてではなくても。あるいは、思い出すことはなくても、自分と相手の中の言語の地層のひとつにはなるでしょう。
頭の中で何かを言語化した時点で、空間に文字を刻み付けるようなものだと感じているんだよね。言語化したら記憶できるし、それをもとにして考えを前に進めていくこともできるし(考えに前があるとすれば)。文字で溢れそうになるから紙の上に書き写したくなりはする。でも紙も永遠じゃないしね。
だから、書くことと話すことに、本質的な違いはないんじゃないかなあ。人との会話は、二人(なり三人なり)で一冊の本を書くようなもので――あるいは一冊の本を一緒に覗き込むようなものかもしれない。同じ本は二度と開けないけれど、読んだ記憶は残る。書くことはまた、人と話すことにも似ているし、白紙のページに文字が浮かび上がってくる魔法の本を読んでいるみたいなことでもある。
書く方が好きだけどね。書く方がゆっくり言葉と向き合えるし、身体性から解放されるから。

往復書簡を始めるとき、何書けばいいんだろう、何でもいいんだよ近況とか、あっ最近困ってること書くね、みたいなこと話してたのに、結局、わたしたちはなんで手紙を書いているんだろうという手紙になりましたね。とても楽しかった。
それでは、
またね。

2018/7/2 川野芽生

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