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中立はすでに(フェミニストの訂正)

  山城周です。

 短歌ムック『ねむらない樹vol.4』を読んだ。特集2「短歌とジェンダー」の座談会は面白かった。面白かったが、訂正を加えたい箇所がある。
 川野芽生、黒瀬珂瀾、山階基、佐藤弓生による座談会では各自が①ジェンダー問題について考えさせられる歌、②ジェンダー問題に触れていると思われる自作、を選んでいる。川野は①に私の歌を引用している。98ページ。


(君は君の恨みを晴らしたいだけに僕は中立だけど見えるよ)
山城周「象使いの資格」(『外大短歌』第9号)


 引用歌についての詳細は後述する。完全に物申すための後述なので、全貌を把握したい人は各自入手して読んでくれ。電子書籍でも買える。
 物申したいのは座談会の99ページにおける発言だ。


  佐藤 (前略)男性の短歌からは今回、適切なサンプルが見つからなかったということでしょうか。
  川野 今回は特に女性が女性をエンパワーメントする歌を選んだ形になりました。


 私は今から言いたくないことを言う。

 私は女性ではない。

 この一文を、載せなければならない。とてつもなく嫌だ。気分が落ち込む。
 私が何者であるかを語らせられたくはない。
 だけど載せなければならない。
 フェミニズムのためであるし、私のためである。
 私のアイデンティティについて好きなだけ語るときもあるが、この記事ではもうこれ以上書きたくない。
 私は短歌をやっているだけなのに何故私が何者であるかを言い訳のように述べているんだろう。
 ただ私は女性ではない。
 それは絶対だ。

 ここでもう1つの雑誌に触れる。
 『現代短歌』2017年8月号だ。「特集 『テロ等準備罪』を詠む」。
 「連続対話 vol.14 平和と戦争のはざまで歌う」という、阿木津英と吉川宏志の対談。歌壇におけるジェンダーへの批判意識という話の流れで阿木津が怪獣歌会に言及する箇所がある。112ページ。

  阿木津 ちょっと変わってきたな、と感じられたのは「怪獣歌会」という……5、6人の女性たちが批評しあっているんだけど、ジェンダーとかフェミニズムを理論的に知っていてその蓄積の上で議論しています。


 これも誤りである。
 当該の雑誌が発売された段階で、怪獣歌会では2017年1月のネットプリントである「quaijiu vol.1」しか発表していない(noteでも読める) 。連作と歌会録である。確かに5、6人のメンバーが参加している。しかし紙面に、怪獣歌会は女性の集団ですと読み取れる箇所があるだろうか。ないはずだ。
 怪獣歌会は女性の集団ではない。
 そのように自称したことはないはずだ。

 私は女性ではない。
 そのように自称したことはないはずだ。

 少し考えたい。
 そもそも何故、怪獣歌会は女性の集団だと、私は女性だと判断されたのか?
 阿木津発言については情報が少なすぎて殆ど分からない。
 佐藤、川野、両氏の発言についてはそれなりに考察できる。

 川野は冒頭の引用歌について、以下のように話している。再び『ねむらない樹vol.4』98ページ。


  川野 (前略)その次は山城周さんの「(君は君の恨みを晴らしたいだけに僕は中立だけど見えるよ)」が含まれる連作は他にも「フェミニスト」という言葉が出てきたり、全体的にジェンダーやフェミニズム、あるいは暴力といったものを意識的に取り上げています。この歌の台詞はおそらくフェミニストの女性に向けられた言葉で、中立を名乗っている「僕」というのはたぶん男性で、女性差別について語っている人に向かって「個人的な恨みに過ぎない」という言い方をする。そういうよくある矮小化の一つの形を歌にして表している。フェミニズムは偏った思想でもっと中立的に見なければいけない、みたいな、ジェンダー問題を矮小化するトーン・ポリシング的なものを詠った歌。


 川野の引用歌に対する言及は以上で全てである。ここから、川野が「フェミニストの女性」の存在を歌から、引いてはフェミニズムというひとつのテーマを連作から読み取っていることが分かる。その読解については今は語らない。

 さて、悲しい話だが、フェミニズムを詠った歌の作者は、フェミニストの女性である、と佐藤は(あるいは川野も)判断したのかもしれない。
 端的に言って、フェミニズムを話しているから女性だと判断するのは誤りであるし、フェミニズムの持つ可能性を狭めるものだ。
 (私もやってしまうことがある。社会的弱者である方が問題意識を持ちやすいだろう。問題意識を持っているということはこの人は弱者属性を持っているんだろう、きっと女性だろう、と。やってしまうことだからこそ、注意深く、注意深くいかねばならない点だと思う。属性と問題意識を結び付けてはいけないし、だいたい、弱者性とはひとつの属性だけに帰するものではない)
 それゆえに、フェミニズムをしているこの人物は〇〇であろうと属性を決める発言に、しつこくしつこく私は突っ込みを入れていく。
 私が山城周でなかった場合、『ねむらない樹vol.4』の該当箇所を読んで「山城周は女性だったのか」と思うかもしれないし、「果たして山城周は女性なのかな」と思うかもしれないし、何も思わないかもしれない。少なくとも、佐藤と川野は私が女性であることを承服していると読み取れる。とても良くないことだと思う。恐ろしい。情報の正誤など。
 ただ私は山城周であるので、私はそれではありませんよ、と本人として、言わなければいけない。

 私は短歌をやっている。
 私はフェミニズムをやっている。
 そして私は女性ではない。
 なるべくならこれを二度と言わないで済む世であってほしい。
 必要ならば何度でも言う。
 それがどんなに血を吐くものであってもだ。
 私の血の一滴は斃れゆく怪獣のものかもしれない。


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