はじめから15歳の幽霊たち

ぼくはヒトではない。親に聞いたところではそれが真実らしい。

これまで16年間生きてきた。つもりだった。人間なんか大嫌いだ。いっそのこと人間なんかに生まれなければよかった。そう思いながらここ数年は過ごしていた。15歳の誕生日に自殺しよう。なんて考えたこともあった。それはちょっとしたアクシデントで実行には至らなかったのだけれど。

「お前が人間でないとすると…何者なんだ?」とあなたは聞くかもしれない。ワレハ情報ナリ。統覚によってまとめあげられた情報の束だ。そう親に告げられたのが今日の夕方のこと。そうして落ち込んでいるのが今。夜。27時半。

ぼくだけが情報なのかというとそんなことはない。ぼくの親も人間ではない。学校のみんなも。街行く人も。すべての人が実は情報でしかない。そして、ぼくは16年間を人間として生きてきた気でいたけれど、どうやらそれも思い違いだという。ぼくが知っているすべての人たちは15歳として生まれた。これまでしかじかの人生を送ってきたという情報を手にした状態で。

だから、ぼくの記憶の中にあるいろいろな思い出は、現実に生起したことではなく、現実に生起したもの「として」保存されていたにすぎない。それは一度も時間の中を流れたことがない。

ぼくが物心ついたのは3~4歳のころのことだ。しかし、それもそういうこと「として」記憶されているだけ。歴史の中を幼いぼくが生きていたという事実はないのだそうだ。つまり、ぼくはこの世に生を受けてたかだか1年。そんな1年生が、世の中を達観したような顔で家の中を歩いている。そんなぼくを両親はどう見ていただろう。と考えると、思わず赤面。

といっても、それはぼくに限ったことではない。だれもが生まれてから15歳までの虚構を抱きかかえて生まれてくる。ぼくの虚構がちょっとだけ特殊なのは、その文字列の最後が自殺の試みで終わっている点だ。とはいえそれは首尾よくは成し遂げられなかった。

けれども、、、と思う。いまこう考えているぼくが、その虚構の一部でない保証はどこにあるんだろう。親に「お前は実は人間ではないんだ」と告げられて落ち込んでいる青年。という情報が書かれているにすぎないとすれば?本当は時間などかつて一度も流れたことはないとすれば? このぼくは机の奥にしまわれたパラパラ漫画の1枚に描かれているにすぎないとすれば? 

優れた絵画は記憶を持っている。

たとえば、子を奪われ泣き叫ぶ母親を描いたあの油絵。彼女は自分が過ごした幼少時代、夫と出会ったときのこと、子どもが生まれたときの感動、彼の成長を見守る喜び、すべてを記憶している。そうした記憶を担った人物として、子どもを奪った悪魔のような人物を追いかけ、大声を上げて涙を流している。ただの絵の中のことだと軽んじてはいけない。彼女は必死なのだ。

たとえば、苦悩する男の一生を描いた小説。その1ページ1ページに書かれている男の煩悶は、彼にとっては現実だ。本当に起こったことだ。彼にはぼくにとっての親のような存在がいない。ある日突然、「これまで起きたことは小説の中での出来事にすぎないから、思い悩む必要はない」などと教えてくれる人はどこにもいない。

でも、、、と気づいた。結局だれも「人間」に出会ったことはないのだ。ぼくはたしかに人間ではないかもしれないけれど、ぼくの家にも学校にも街にも、どこにも人間はいない。人間に出会ったことがある人はこの世界に存在しない。だとしたら、人間なんて最初からいなかったんじゃないか。ぼくたちのような情報だけが存在する。「人間」というのはその統覚が出力する関数。「初めから15歳の幽霊たち」でひしめき合っている場所――それを世界と呼ぶことにしよう。

そう思い至ると、ぼくは少しだけスッキリしたのだった。

(続く? ひとまず以上です)

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