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「自然はよくない」とあえて言ってみる。

「人工物、よくない」「自然、いい」――きっとそうでしょう。でもあえて「自然、よくない」と言ってみる。

たとえば食品。

巷に流布する「自然な食品こそが健康につながる」という言説、あるじゃないですか。自然な食品こそが正しい、という話の背景にあるのは、食品の工業化、マクドナルド化に対する危機意識だろう。

こんなもの食べてたら、肥満になる、病気になる、アレルギーになる、と。だから、無農薬、無添加、遺伝子組み換えなし。あるがままのたしかな自然こそが、答えを知っていて、それに抗わないことこそが人間の幸福を生み出す、と。

これを通俗的自然主義(Folk Naturalism)と呼ぶことにしよう。「通俗的」という語には、何か貶めているようなニュアンスがあるけれど、そんなつもりはなく…。思想史的にいろんな文脈で「自然主義」というのがあるので、ひとまずそれと区別してみようという程度。

通俗的自然主義は、食品のみならずあらゆる領域において発現する。

たとえば「美容」。

いわく「合成された化粧品は、見せかけである。肌への負荷も大きい。本当の美は、より自然な素材からつくられた化粧品、あるいは、それ以外の生活習慣の改善によって生まれる」。

いわく「老化は人間の自然である。それを恥じることはない。ありのままがいちばん。スッピンバンザイ」。

たとえば「性」。

いわく「世の中の男性はアダルトビデオに洗脳されている。それにとらわれない自然なセックスこそが、両性に満足の行くすばらしい営みである」。

いわく「特に女性たちにはびこっている禁欲主義をとりはらうべきだ。人間は本来的には動物であり、これを抑圧しようとする試みはすべからく反自然的である」。

通俗的自然主義は、そのあまりに素朴なロジックにもかかわらず、爆発的な拡散力を持っている。とくに女性への伝播はすばやく、確実であり、これをコンテンツの中核に据えているメディアは、比較的手堅い収益を得ている。

しかし、さほどの熟慮を待つまでもなく、この種の自然主義には、かなり危ういところが見え隠れする。

まず、そもそもこれが一つの「主義(-ism)」として登場せざるをえないこと自体が、人間の「非自然性」を証明するというジレンマがある。つまり、人間が本性においてまったく自然的であるのだとすれば、自然主義的言説などが騒ぎ立てなくても、人間は「つねにすでに」自然的であるはずだ。

自然主義が歴史の中で繰り返し渇望されること自体が、人間が「つねにすでに」自然から逸脱した存在であることを証立ててしまう――そういう構造がついて回る。

ここまでくると、「自然」-「非自然」というダイコトノミー自体が、かなりいい加減なのだと言わざるをえない。むしろ、人間は本来的に「半自然-半非自然」であり、歴史が進むなかで、そのうちのある種の傾向(たとえば動物と共有している部分)だけを抽象化・理想化し、それを「自然」と呼ぶようになった。したがって、かつて人間が純粋に自然的であったことは一度もない、というのが真相だろう。

「自然へ還れ」というあのスローガンは見せかけのものでしかなく、「還る」もなにも、ぼくたちは「自然だったことがかつて一度もない」のだ。事実、社会契約説を唱えた思想家たちも、それが前提とする自然状態を「フィクショナルな道具立てにすぎない」と認めていた(という解釈をする文献学的な研究成果もある)そうだ。  

それでも人間の「ありのまま」がどうしてもほしいなら、それは本来的には動物的自然を逸脱するような傾向をも含んだものであるはずだ。これを「真性な自然(Authentic Nature)」と呼ぼう。

通俗的自然主義は、観念的な「動物的自然」という思想的精製物を追い求めているにすぎず、その意味でより屈折している(真性な意味でより反-自然的である)。

というのも、人間は本来、動物的自然を逸脱してしかるべきところを、そうした傾向性を否定しているからだ。そして、何やら怪しい「自然」を蒸留的措置によって捏造し、そこに自分自身を縛りつけようとするのが、通俗的自然主義のやっていることの実態だ。「自然と人為」というお決まりの対立構図を持ち出すのだとすれば、通俗自然主義というのは人為の極地以外の何物でもない。

だから、あえて言ってみる、「『自然』はよくない」と。

ここで終わってもいいのだけど、さらに歩を進めよう。まだ、こういうふうにも考えられるから。

「あるいは、この通俗的自然主義そのものも、人間の真性な自然に包含されるものなんじゃないか」

つまり、人間の真性な自然のなかには、自分の本性の一部だけを純化・理念化し、それを自分の真性な自然だと錯誤し、追い求めてしまう機能が「初期設定」として組み込まれている、ということだ。

こうした「補助線」を引くことで、歴史上に繰り返し通俗的自然主義が現れることは説明できる(もしそう言いたければ、これは「疎外」と呼んでもいいかもしれない)。

だから、こうも言える。「『自然』は仕方ない」と。

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