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「他人の頭で考えよう」とあえて言ってみる。

自分の頭で考えることが大切だ、と言われる。もちろん、そうでしょう。でも、あえて「人の頭で考えよう」と言ってみる。

ショーペンハウアーという19世紀ドイツの哲学者がいる。彼は『パレルガとパラリポメナ』という本のなかで「読書について」と題した論考を書いている。つまるところ、これは「読書批判」のために書かれた文章だ。

彼のロジックはこうだ――読書というのは、他人の頭に考えてもらう行為にほかならない。それに溺れれば溺れるほど、人は自分の頭で考えなくなる。よって、読書なんてやめちまえ、と。

かく言う彼も、実はものすごい読書家だった。20歳のころに、フランクフルトにある「ショーペンハウアー文庫(Schopenhauer Archiv)」を訪れたことがある。彼の遺品とともに蔵書の一部なども公開されていたが、「読書なんかするな」と言っていた人間の書庫にはとても見えなかった。

そこで、本論。当然、自分の頭で考えるのって大事。それでも、あえて「他人の頭で考えよう」と言ってみる。

ぼくが大学時代を過ごした哲学科という場所では、多くの先生たちがよく「自分の頭で考えるな」という趣旨のことを言っていた。明示的にそう言われたわけではなくても、そう受け取れるような文脈が与えられたり。

なぜそんなことになるのか?

哲学科に来るような学生というのは、元来、自分の頭で考えることが好きで、放っておいてもあれこれと考えてしまうタイプが多い。これは一見すばらしいことのように思えるが、どちらかと言うと、単なる怠惰のなせるワザであるケースが大半である。

なぜなら、哲学というのは自分が今いる場所から一歩も動かず、自分が持っているもの(つまりは自分の頭)だけで、何かたしからしいことが一つでも言えるかどうかを検証する試みだからである(と、ぼくは理解している)。

その際、先生たちが懸念しているのは、学生たちの思索が知的マスターベーションに終わることではない(自分たちだって、それと大差ないことをやっているのだから)。もう少し事情はシンプルだ。

すなわち、そこらの凡庸な知性が自分の頭で考えられることは、たかが知れていて、それは歴史を振り返れば「すでに考えられたこと」「考え尽くされたこと」である可能性がきわめて高い。

むしろ、これまで誰も考えなかったことというのは、この分野においてはまず存在しない。もしもあるとすれば、それは問いがあまりに瑣末だからであって、よほどのことがないかぎり、新しい問いなどは生まれえないのだ。

だから、凡庸な知性にできることは「これまで何について考えられて『きた』か」について学ぶことだ――と先生方は言いたいわけである。彼らがそう警告するのは、彼ら自身が若かりし頃に、何か痛い思いをしたからなのかもしれないけど。

考えるという行為にはつねに独特のスリルや快感がつきまとう。「これはひょっとして自分しか考えたことがないのではないか」――そういう予感があるとき、このうえない心地よさがある。でも多くの場合、その思想がオリジナリティにあふれているからではなく、思考という行為が本質的に孤独なものであるがゆえに、そうした勘違いが起こりえているにすぎない。

ゆえに「他人の頭で考えよう」というわけだ。

具体的にはそれは「本を読むこと」だ。先生たちは「読書=他人の頭で考えること」という前提をショーペンハウアーと共有しながら、真逆の結論を導き出している。

ただ、「読書=他人の頭に考えてもらうこと」というときに、誤解しないでもらいたいのは、これが「他人に”答え”を教えてもらうこと」ではないということだ。他人の頭で考えることを可能にするような読書とは、著者の思考を追体験できるようなものだ。

それによる最大の効用は「時間・コストの節約」である。つまり、著者が30年をかけて考え抜いたことを、たとえば3日でバーチャルに追体験できるのが読書の強みにほかならない。

テレビマンとして有名なある方からも、同じようなお話を聞いたことがある。

「文学を読む意味ってどこにあると思いますか?」とその人に問われて、ぼくはそれらしいことを何も答えられなかった。彼の考えはこうだ。

「人は自分の人生しか生きられない。しかも、とてもゆっくりと、不確かな仕方でしか、生きられない。だからぼくたちは物語を読むことで、『他にもありえたかもしれない人生』をたくさん、短時間で追体験することができる。それが物語の最大の効用だ」

こういうプラグマティックな文学理解については異論もあるかもしれないが、ぼくがこれまで耳にした読書論の中では、これがもっとも納得感のあるものだ。

というわけで、あえて言ってみる、「他人の頭で考えよう」。

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