「できない」試論

よく理系テーマの入門書の「はじめに」とかに「ご安心ください。数式は一切使わないで説明しました!」的なことが書かれている。しかし読み終えた読者は、結局その本が本当にわかりやすかったのかどうか、いまひとつ確信が持てない……ってことがよくある。

これは、問題の本質がじつは数式にないからだ。「躓きの石」は読者が数式そのものをではなく、数式が表現する科学的思考を理解できていない点にある。

たとえばニュートンの『プリンキピア』は、その大半が科学的思考で貫かれているが、数式はほとんど登場しない。有名な「ma=F」といった運動方程式すらも、式ではなく文のかたちで表現されている。にもかかわらず、「数式が苦手な人」は、ニュートンが言っていることを理解できないだろう。ぼくもそうです。

これのアナロジーとして、「パソコンが苦手」というのがある。パソコンが苦手だという人の多くは、自分を「機械オンチ」だと考えているが、たいていの場合、それは誤解である。

パソコンは情報処理のためのツールだ。つまり、実物のノートやメモ帳・スケジュール帳、書類を閉じておくファイルやクリアファイル、デスク、文房具や電卓、辞書・事典などの延長線上にある道具でしかない。したがって、ほとんどの自称「パソコンが苦手」な人は、パソコン「が」使えないのではなく、そもそも基本的な情報処理の作法が身についていないだけなのだ。

実際、たとえ高齢であっても、情報の処理能力が高い人は、パソコンの基本的操作を次々と習得していく。一方、若くてもパソコンが苦手だという人は、デスクの上が散らかっていたり、カバンの中がぐちゃぐちゃだったり、すぐに物をなくしたり、約束の時間に間に合わなかったりする。処理能力の低さが「パソコンが苦手」という形で発現しているにすぎない。

一方で、現実には「ホンモノの機械オンチ」も存在する。パソコンだけでなく、テレビ番組の録画や洗濯機の操作もうまくできないという人だ。こういう人に欠けているのは情報処理能力ではなく、学習能力だ。

注)ここでいう学習能力は、学校でのお勉強の能力(学力)ではなく、新たな知識にアプローチし、それを吸収する力のことだ。学力は「学習能力+記憶能力+応用能力」の合成である。さらに言えば、ここでいう「能力(ないし力)」とは「才能+スキル+意欲」の合成である。才能とスキルの違いは、先天的か後天的かであり、意欲とはそれらを駆動するためのエネルギーである。

一定年齢を過ぎると、学習する能力が急激に低下する人がいる。そういう人たちは、当然、新たなテクノロジーにも馴染めない。現代人が年を取ってから出会う新たな知識・技術のほとんどは、「機械」に関するものが多い。だからこそ学習能力の欠如は、「機械オンチ」という形態をとるケースが圧倒的に多くなる。

けれどもそういう人は、感性の分野(趣味や芸術など)でも新規学習をやめていることがほとんどだし、より生々しい人間関係のあれこれにおいても、もはや新たに何かを学ぼうとしない。結果、同じような失敗を繰り返したり、同じような原因で他者と衝突しがちである。そのうえ、一向に悪びれる素振りも見せない、学習しないからね。

…という話をしながら、相手のメンタルを遊び半分にギリギリと追い詰めていたら、「そういうあなたは共感能力が足りないね」と反撃されて、なるほどちげぇねぇやと思った次第。

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