バカは一生わからない

何かを「わからない」という状態にあるとき、つまり「無知」である場合、必ずそこには「2つの無知」がある。一つは「知られるべき対象についての『知識の欠如』」としての無知。これは一般的な意味での「無知」だ。もう一つは、「『対象についての知識の欠如』に対する無自覚」である。つまり、対象についての知を持たない場合、自分がその知を持たない(無知である)という事態には気づき得ない。これを便宜的に「非知」と呼ぼう。

人が何かを「わからない」という状態にあるとき、「無知」と「非知(知らないことをわかっていない)」の2つがそこには必ず共存している。逆に言えば、「わかる」とは、つねにたしかに「わかっていなかった自分」を自覚することでもある(これを「気づく」と呼ぶことにしよう)。

ここから帰結するのは、新たな知識の獲得は、「わかる」の必要十分条件ではないということだ(こちらは「知る」と定義しておこう)。むしろ、「気づく」のほうが「わかる」の成立には欠かせない。その証拠に、何ら新たな知識を獲得しなくても、何かをわかることはできる。

では、「気づく」とはどういうことか。これは過去の自分の知識の「輪郭」ないし「境界」を意識することにほかならない。ゆえに、「気づく」ためには(「輪郭」を意識化するには)「距離」が必要になる。もう少し敷衍しよう。

地方出身者が東京に出てくると、「東京人はなんて物知りなんだろう、自分は何も知らない」と思い知らされた気になる。だが、しばらくすればそんなギャップは埋まってしまう。すると今度は、途端に東京人たちの視野の狭さのほうが気になってくる。「この人たちも『東京』という一つのエリアにとどまっている人なのだ」と気づかされる。自分たちが故郷に残してきた人たち、地元で結婚し、地元で子育てをし、地元で年をとり、地元で死んでいく人たちと変わりないのだと。

この感覚は東京に住むかなりの地方出身者が共有しているものだと思う。そこで、「君たち東京人は、『自分たちがどういう場所に住んでいるのか』についてじつは何もわかっちゃいないのだ」と伝えようと思うが、口を開きかけて言いよどむ。伝えるすべがないのと気づくからだ。「わかる」ためには「距離」が必要で、東京人にはそれが決定的に欠けているから。この歯がゆさ、もどかしさ。

同様に、外国に移り住んだ経験がある人も、同じ体験をしていると類推できる。外国に住んで初めて「『日本人の島国根性』とはこういうことか」と腑に落ちる経験をする。なかには、日本に帰ってきてから(たいていの場合は善意から)「日本批判」を繰り広げる強者もいるが、「たしかに仰るとおりです。これからはグローバルの時代ですもんね~」という答えしか返ってこないことに気づき、愕然とする。「言葉が通じない」「こいつらは一生わからない」と感じる(のじゃないかと想像している)。

物理的な隔たりの例が続いてしまったが「気づく」に不可欠な「距離」というのは地理的なものにとどまらない。

たとえば、「ぼくは先天性赤緑色盲なんですけど…」という話をすると、かなりの確率で「じゃあこの赤は見えないの?」「これは何色に見える?」と尋ねる人がいる。ふだんはかなり思考力がありそうに見える人も、うっかりとそういう言葉を漏らす(これだけでピンとこない人は「赤緑色盲」を「全盲」に置き換えてみることをお勧めする)。

そのときにもぼくは「言葉が通じない」と感じる。「色が見えるとはどういうことかについて、ぼくのほうがはるかによく『気づいて』いる」と感じる。でもそれをうまく伝えられない。

その意味では、「気づく」、ひいては「わかる」を少しでも多く得る人生を送るためには、ある種の欠如体ないマイノリティとして生まれる/育つほうがアドバンテージになる。地方出身者のほうが都市についてよりわかるチャンスがある。女性のほうが(少なくとも現代日本では)性についてわかる機会に恵まれている。ハーフとして生まれた人はナショナリティの本質を理解するうえで一歩先んじている。二人兄弟の長男よりも三人兄弟の次男のほうが兄弟関係を深く洞察しうる。などなど。
裏を返せば、騙されている人ほど、数多くの幻覚に惑わされている人ほど、より多くを「わかる」可能性に対して開かれていると言うことができる。

さらにここから帰結するのは、「わかる」に必要な距離は「偶然に」もたらされるということだ。「わかる」とは、いまいる場所から突如として空中に引っ張り上げられ、自分が立っていた場所をまざまざと見せつけられるような類の経験だ。そこには個人の意志とは別のものが働いているとしか思えない。偶然、はたまた、恩寵(Gratia)と呼びたくなる人もいるかもしれない。

「わかった!」という思いが湧き上がるとき、ぼくたちは「なぜ『いままで』わからなかったのか」を絶対に説明できない。がんばって考えたから? だとしたら、なぜ「いま」その努力が実ったのか?。ヒントが与えられたから? ではなぜそれが、まさにその瞬間にヒントとして現れたのか?(13世紀にガンのヘンリクスが「神の照明なしに人間は何かを知り得るか?」と問うたときには、このような問題意識があった)

だからわからない人は一生わからない。どれだけ知識を得るかは関係なく。

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