方言と敬語についての試論

たとえば、大阪出身の人が東京に住むようになって、すごくきれいな標準語を身につけているケースというのをよく目にする。東京から言語的な隔たりが大きければ大きいほど、言語の標準化は首尾よくいくようだ。地方から出てきた大学生でも、九州とか東北の出身の人は、1年もすればほぼ見分けがつかないくらい標準語に習熟する。これは要するに、東京弁を「外国語」として学ぶからだ。

地方出身者が標準語を学ぶ機会は、「大学入学」か「企業就職」のどちらかに大別される。前者であれば、くだけた標準語を身につけるチャンスがあるが、後者はまず丁寧語・敬語バージョンの標準語から入っていくことになる。これがどういう帰結を招くかについて、ちょっと考えたことがある。

大人になってから標準語を身につけた「東京弁非ネイティブ」は、地元では容易に構築できていたレベルの人間関係を、東京で築くのに異常に苦労することになる。どれだけ年齢や環境が近しくても、そのあいだには敬語という壁が立ちふさがっており、微妙な距離が生まれてしまう。東京弁ネイティブは敬語を駆使しながら親しい関係性を築くことに慣れているが、東京弁非ネイティブはそうではない。なぜか?

仮説:彼らの地元には、本来的な意味での敬語が存在していないからだ。

方言における敬語的表現は、人間関係の垂直的な上下を表すというよりは、水平的な「内/外」や「距離」を強調するものとして機能しているケースが多い。たとえば、京都の人が「あの人、けったいなことしたはるなあ」と言えば、その「したはる」はその対象を敬っているわけではなく、「あの人」を自分のコミュニティには属さない「外部の人」として排除していると解釈できる。

元来排他性が強い「京都ことば」の言語空間のみならず、これはかなり多くの地方言語についても言えるように思う。
ぼくの地元の岐阜弁(美濃のことば)でも、「あの人、たぁけたことしとりゃーすわ」「とろくさいことしとらっせるみ(に)」などと言う場合、文法的には敬語表現にあたる「りゃーす」や「らっせる」はほぼ尊敬を含意しない。

もちろん、尊敬表現の助詞として「してりゃーす」「しとらっせる」などが使われないわけではないのだけれど、用法のサンプル数で見れば、その割合はかなり低いと推測される。

(注:ただし、同様の敬語表現である「してみえる」などは、純粋な尊敬を表すケースのほうが多く、人間関係の距離を表す表現として使われることはまずない)

逆に、東京弁であれば敬語を使うべきであるような場面(たとえば目上の人との会話)でも、方言空間では尊敬の助詞が使われるとは限らない。とはいえこれは、非東京的コミュニティの人間関係がよりフラットだということではない。敬意はコンテクストのほうにインプリシットな形で包含されていて、言語表現としてはより親密かつプレーンな言葉が好まれるというだけだ。

本来はとてもこなれてフランクな性格をしているはずの人が、東京にいる間はやけに「まわりに気を遣う格式張った人」を演じなければならなくなっているケースを目にすることがあるが、これには上記のような事情があるのではないかと考えた次第。

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