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南朝正統皇位継承論4-富士谷御所の伝説

富士谷御所の伝説

前回の「南朝正副二統皇位継承論に徹する!」(№189)の論旨を補強する資料がありますのでご紹介します。

ただし、「守永親王の伝説」(№190)で考察したように、正統の皇統は内伝の天皇として秘し、決して表に出さない方針だった事は鉄則として踏まえておく必要があります。(極秘であったという事です!)

(1)三輪義熈『長慶天皇紀略』

長慶天皇墓富士谷白黒

長慶院法皇の御陵墓(三輪義熈著『長慶天皇紀略』巻頭写真)

皆さまよくご存じの三輪義熈著『長慶天皇紀略』の中に、長慶院が、吉野朝と富士谷御所の両拠点を構え、皇弟熈成親王と共闘計画を立てたことが書かれています。

建徳「三壬子年正月、皇弟熈成親王を立てて、皇太弟となす。後村上天皇第二の皇子なり。是より先、天皇、公卿及び諸将を行宮に会し、密議の末、計策を立てさせ給ふ。即ち、天皇、位を皇太弟に禅り、以て兄弟吉野、富士の東西に分かれ、皇太弟は吉野に拠り、関西の勤王の義兵を催し、以て京師を図らむとし、天皇は、富士谷に拠り、関東の宮方の、忠臣を語ひ、以て鎌倉を討せんことをぞ定めける。」(三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁、旧漢字は新字体に改めました。)

建徳三(壬子)年は西暦1372年です。皇弟熈成親王が皇太弟に就任した時期は、『ウィキペディア』後亀山天皇では、正平23年/応安元年(1368年)で、4年の食い違いはありますが、

上記は、吉野朝廷(副統)と富士谷御所(正統)の両方に拠点を置いてやって来たこれまでの方針を踏襲し、富士谷御所にも副統の長慶院が表に立つという方針が加わった事になります。

 内伝上皇・・・守永上皇(尊良天皇一宮、後醍醐天皇猶子)
 内伝天皇・・・興良天皇(宗良親王王子)、小室門院(守永天皇皇女)
 副統天皇・・・熈成親王(吉野)、長慶院法皇(富士谷)

正平23年(1368年)3月11日、南朝副統の後村上院が亡くなり、また同年7月21日、新田義貞の三男義宗が戦死し、翌正平24年(1369年)には、楠木正成の三男正儀が三代将軍に立った足利義満に降伏するなど南朝の大受難期であったため、長慶院は、内伝の天皇では求心力に欠けると考えたのではないかと推察しています。

こうした状況の中で、文中2年(1373年)、内伝の天皇・興良親王が、遠州秋葉城の戦いに敗れ(静岡県浜松市天竜区春野町領家)落城後、逃走中に今川氏の手の者に捕らえられ、京都に連れ去られるという事件が起きたので、

長慶院は、文中3年(1374年)内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、太上天皇の尊号を蒙り、小室門院の後添え皇夫となりました。(三浦芳聖・大著142頁、144頁)

文中3年甲寅正月21日、長慶院は「遂に位を、皇太弟熈成親王に禅らせ給ふ。後亀山天皇是なり。前帝は、寛成院、又は長慶院太上天皇とぞ称し奉りける。(三輪義熈『長慶天皇紀略』48頁、旧漢字は新字体に改めました。)

正平6年(1351年)正月、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従えて御潜行。到る正平11年(1356年)まで御駐蹄。(五條文書)

上記「五條文書」に、長慶院は10歳の正平6年(1351年)正月から正平11年(1356年)まで足掛け6年甲斐の隠城(富士谷)で教育を受けていますし、

内伝の天皇・正良親王(当時11歳)の養父・摂政となり、興国天皇から三種の神器を継承した小室門院元子内親王の後添え皇夫となったくらいですから、内伝の天皇に関する極秘事項をよく承知しておられた事と思います。

それは、自ら定めた長慶という院号に内伝の天皇(守永親王)を尊重する意味が込められているのを見れば明らかです。

長慶とは、「長=なが=永(守永)を慶賀する」という意味ですから。

【参照】長慶院法皇(ちょうけいいんほうおう)

【参照】下記は三輪義熈『長慶天皇紀略』オンライン版です。

(2)富士谷御所(大明見)の神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第五章

「小室門院元子内親王」は、興国2年(1341年)富士谷の御所、小室城宮下の館(山梨県富士吉田市大明見)で御降誕と云われ、三種の神器を継承した皇后(実質上の皇位継承者)ゆえ、生活の根拠地が神風串呂で昭示されています。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』187~198頁)

大明見
山梨県富士吉田市大明見(地図マピオン)

(ア)大明見と元町(さいたま市)の神風串呂(№71)
「吉田」-「京丸」-「小室沢」-「大明見」-「南元宿」-「元町」

(イ)大明見と小室山(伊東市)の神風串呂(№71)
「小室山」-「忍草」-「大明見」-「南」-「焼山峠」-「御所平」

(ウ)御調町公文と大明見の神風串呂(№72)
「公文」-「神代町」-「南古都」-「新田」-「⛩松尾大社」-「鏡山」-「政所町」-「神守町」-「南山町」-「丸山」-「醍醐山」-「大明見」-「五辻」

【参照】小室門院元子内親王(№70)

(3)『富士谷 長慶院仙洞御所略図』

 本来は、三輪義熈が宮下文書によって隠れ南朝の歴史をまとめた「長慶天皇紀略」の付録資料として世に出そうとしたけれども、この地図によって貴重な遺跡群の場所が明らかになり、不敬の輩によってそれらが破壊される可能性を案じて断念したといういわくつきのもののようです。
 分かる方には垂涎の資料ですし、分からない方にはチンプンカンプンのトンデモ地図でしょう。あるいは地元の方には新たに興味を持っていただくこともできるではないかと思います。
 まあ簡単に言えば、後醍醐天皇の孫である南朝第98代長慶天皇(とその臣下たち)がこの富士北麓に落ちのびてきて、富士高天原を南朝とともに復興しようとしたという驚愕のパラレル・ヒストリーです。
「不二草紙 本日のおススメ」より)

(4)富士谷の南朝秘蹟

南朝史学会の藤原石山氏は、山梨県の富士谷(桂川上流の富士吉田市や南都留郡の山中湖周辺)に、南朝正統家の隠れ城(富士谷御所)が存在したことを考証していますので、そのさわりの部分を抜き出しました。
(誤字とはっきり分かる箇所は訂正し、西暦年を加えた)

(前略)大正十三年(1924年)三輪義熈みわよしひろ氏が「長慶天皇紀略」をあらわし宮下家の古記録を考証して発表し学界の問題となった。(中略)問題の古文献は、南朝及び後南朝に関するものがその大半を占め特に長慶天皇がここ南都留郡富士谷に御行在おんあんざいになり、この地に崩御したことが誌されているのである。(中略)長慶天皇の研究には最も貴重な参考資料である。(後略)

富士谷南朝秘蹟(『南朝正統皇位継承論』所収)

 山梨県都留市桂川上流である山中湖の周辺は、富士谷ふじだにと称せられ、この地は、古来南朝関係の史実もあり遺蹟伝説いせきでんせつに富んでいる。山中湖西岸の山中に御所と呼ばれる地があり、高貴の館跡やかたあとと推定せられる遺蹟が現存して、宗良むねなが親王の御住居の御殿ごてんのあった所と伝えている。 

忍びて住みはべりし山里に梅花さかりなりしかば   
 梅の花うたて匂ひにおいしるければ     
  我が隠家かくれがも人や訪ふらん (梨花集 春) 

山里に住みはべりし頃よみける   
 草のいおり竹の編戸あみどのかりの世に      
  月も心をとめじとぞすむ (梨花集 秋)

この歌は、親王のこの里に詠まれたものである。  
 名にたてる鶴のこおりの民なれば     
  千世ちよのみつぎもたえせざりけり (梨花集 雑)

これは、親王が年々の貢物みつぎものを欠かさぬ都留郡民の忠良を御讃へおたたえになった歌である。

又正二位大納言藤原政為まさため卿の歌に   
 君が代の千代の日嗣ひつぎ行末ゆくすえは      
  つるのこおりの民やしるらん (碧玉集)

があり、今から五百年前に詠じたもので、この一首をみても甲斐国かいのくに都留つる地方が皇室に深いゆかりあることが知れるのである。(中略) 

富士谷は、後醍醐天皇以来南朝方の近従が画策かくさくを計ったところで、藤原藤房ふじわらふじふさもこの地へ来られ、金剛坊はその遺蹟と伝えられている。又富士十二郷の総地頭富士大宮司の三浦氏は、南朝の秘密裏大将と伝えられ、南朝の正統を守護し、そのため京より多くの公卿も此地このちに移住した。大明見おおあすみは、さながら京都の町を縮小した如き観があり、この地方には今尚これを物語る地名や御所言葉(公卿言葉)と思われる古風な方言が残っている。三浦氏は姓を宮下と改め、大明見おおあすみの小室浅間神社の宮司家である宮下守氏の先祖は三浦氏と称し、㊂の紋を家紋としている。(以下略)

藤原丸山著「富士谷の史蹟と伝説」(誤記箇所を訂正した)

【資料】
『南朝正統皇位継承論』(南朝史学会/1988年新版)
  富士谷南朝秘蹟(長慶天皇の伝説と木地屋民)
『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会/1979年)
  富士谷南朝秘蹟

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 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)

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