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正統天皇が天の岩戸篭りし三浦と名乗った!蔵王山-三浦山(大門三串 -🔴-🔴-🔴- )の神風串呂

この記事は、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

神皇正統第百代・大宝天皇(美良)が、享徳3年(1454)岡崎市切越町の隠棲地に於て、天照大御神からたまわった優渥ゆうあくなる御神諭に従って、

延元元年(1336)10月9日、比叡山において後醍醐天皇から遠祖・尊良親王が継承した三種の神器を地下深く埋蔵し、「あめ岩戸篭いわとごもり」をしたことを昭示する神風串呂をご紹介し、詳しい解説をしています。

串呂クシロ(かんろ)とは

串呂クシロ(かんろ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!



正統天皇が天の岩戸篭りし三浦と名乗った!

1、三浦芳聖による日本発の新発見

田原の蔵王山
愛知県田原市 蔵王山(地図マピオン)

愛知県田原市に「蔵王山」という標高250メートルの山があります。その蔵王山展望台は、360度の大パノラマを満喫できる観光スポット(渥美半島の東の玄関口)になっています。

蔵王山展望台
蔵王山展望台(愛知県田原市)

この蔵王山は、平安朝末期、三重県熊野地方の一族が移住して山岳信仰の中心地とされ、江戸時代には田原藩の「狩り場」として利用されました。

しかし、現在この蔵王山という地名が「神皇正統の天皇が民間に隠れた!」という意味を秘めていることを知っている人は皆無に近いと思います。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)であります。

三河吉野町の事蹟を研究した山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』(1943年)は、この神風串呂と呼ばれる地文学の草分け的研究書でありますが、

三種の神器を継承した正統の天皇が、愛知県岡崎市牧平町大門に隠棲して三浦と名乗った史実を解明し、世界で初めて天下に公表したのは三浦芳聖であり、これは三浦芳聖による日本発の新発見であります。

牧平大門
愛知県岡崎市牧平町大門(地図マピオン)

串呂哲学とは(1)の「串呂哲学解明の経緯」で述べましたように、三浦芳聖の父、三浦市次郎(宗心)が、今わの際に上半身を起こして布団の上に座して絶叫した「奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんより木曽きそ三浦山みうらやまよ!」」が神風串呂解明の糸口となりました。

木曽の三浦山(国土地理院地図)

三浦芳聖は、この串呂を解明する為に、蔵王山に10年間に6回も登り三浦山の方角を眺めて見たそうです。そして、学生時代のある時には蔵王山から三浦山まで行脚したこともあったそうです。

大正7年(1918)3月、三浦芳聖は、数え年15歳で上洛、中学および専門学校で学びましたが、その学生時代のある日、ふと思いついて

父親が断末魔に絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曽の三浦山を見よ!」の意味を解明するため、20万分の1の地勢図をつなぎぎ合せ、地図上の愛知県田原市の「蔵王山の山巓さんてん」と長野県木曽郡王滝村の「三浦山の山巓さんてん」とを糸で結んで見ました。

すると不思議なことにその線上に、芳聖の「出生地の牧平大門」(岡崎市牧平町大門)が通っていたのです。

〽蔵王山(田原市)-牧平町大門(岡崎市)-〽三浦山(長野県)

芳聖は、神秘的な思いに包まれ、この線上に位置する他の集落の「地名」を調べてみた所、

出生地の
🟡岡崎市牧平町「大門」のほかに、
🟡岐阜県中津川市付知つけち町の「大門」、
🟡愛知県蒲郡市大塚町の「大門」と、

同じ「大門」という地名が三箇所も通っていることを発見したのです。

芳聖は、蔵王山大塚町大門牧平町大門付知町大門三浦山  の線上に何か重大な啓示が秘められているのではないかと直感し、さらに研究を続けましたが、すぐには解明に到りませんでした。

この「蔵王山」-「大門三串」-「三浦山」の串呂の意味が解明されたのは、父親の遺言ゆいごんに従って、数えの21才になって徴兵検査を済ませた後、

大正13年(1924年)6月30日、芳聖が三浦家に一子相伝・極秘で伝承された古記録(系図その他の文書)を地下から掘り出して読んだ時のことでした。

その古記録には、後醍醐天皇から皇位を継承した代々の天皇の事蹟が細々こまごまと記され、三浦家はその直系の皇孫であると書かれてありました。

その古記録の主な内容は、
🟣『三浦芳聖- Wikipedia』(三浦皇統譜)をご覧下さい。

芳聖は、この古記録を読んだ時、蔵王山大塚町大門牧平町大門付知町大門三浦山  の意味が「王(天皇)があめ岩戸篭いわとごもりをして三浦と名乗った」と解釈できたので、

三浦家に伝承された古記録の内容に確信を得ると同時に、串呂に秘められている地文の重大性を感得したのでありました。

芳聖は、三浦家に伝承された古記録の知識を元に、さらに串呂の研究を進め、改めて、蔵王山大塚町大門牧平町大門付知町大門三浦山  の意味を考察した時、

神皇正統の天皇があめ岩戸篭いわとごもりした事を、天地神明が地文に秘めておかれたのだと理解され、一気に串呂哲学の要諦ようていが解明されたのでした。

芳聖は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』の序文で、この一本の神風串呂の意味を解明するまでに満13年間かかったと述べています。

それでは、「蔵王山」-「大門三串」-「三浦山」の串呂を、さらに詳しく、個々の地文についても、その意味を分かりやすく解説して参りましょう!

2、蔵王山と三浦山の神風串呂

長野県木曽郡王滝村 三浦山(国土地理院地図)

三浦芳聖は『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』の中で、国土地理院発行の20万分の1の地勢図をつなぎ合わせて、蔵王山(愛知県田原市)と三浦山(長野県木曽郡王滝村)とを結んで、

その線上に連なる地名を詳細に検討すると、南方から次のようにな地名が貫線すると述べています。

🟡この串呂は、国土地理院発行の20万分の1の地勢図「富山」「高山」「飯田」「豊橋」「伊良湖岬」の5枚を貼り合わせたもので、誰でも確認することが出来ます。
🟡細部は5万分の1の地形図や2万5千分の1の地形図で調べます。WEB地図検索でも調べることが出来ます。ぜひ実際にやってみて下さい。

【串呂哲学の鉄則】
串呂は方角の正しいメルカトール図法で作成されている国土地理院発行の20万分の1の地勢図を使用します。細部は5万分の一の地図やWEB地図などで調べます。

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章)

〽蔵王山-大塚町大門―〽宮路山-牧平町大門-寺野ちち薬師・大楠―吉良見― 付知町大門-〽三浦山ー〽大日岳-朝日町

(各地名の住所は、上記の串呂図をご覧ください。)

🔴結論から先に述べますと、「吉良(美良よしなが)天皇がこの線上にかくれ、三浦と名乗った。」と解釈いたします。

それでは各地名(地文)について考察して参りましょう。地名には地図がリンクしています。

【地文の解釈】                         (1)蔵王山(ざおうざん、愛知県田原市)
この地文の串呂哲学上の解釈は「王がかくれた」である。くらは大事なものを仕舞しまっておく場所である。

この地文は、神皇正統の天皇が民間に隠れたことを表わします。また、極秘で皇位を継承した内伝の天皇という解釈も成り立ちます。

また、蔵王=座王でもあります。この線上に王(天子)が存在する(した)と解釈します。

愛知県田原市の蔵王山(YAHOO!JAPAN地図)

【参考資料】
蔵王山は豊橋の西南方10kmにある標高250メートルの山。平安朝末期、今の三重県熊野地方の一族が移住して山岳信仰の中心地とされ、江戸時代には田原藩の「狩り」の場所として利用された。奥郡おくごおりとは、田原市赤羽根町・渥美町近辺を指す。現在、蔵王山展望台は、360度の大パノラマを満喫できる渥美半島の東の玄関口として観光スポットになっています。

🟠国内蔵王山一覧
山形県山形市蔵王山田 蔵王山
宮城県刈田郡蔵王町 蔵王山
愛知県田原市 蔵王山
広島県福山市蔵王町 蔵王山
・・・・・
鹿児島県姶良市 蔵王岳

🟠国内蔵王一覧
山形県山形市 蔵王飯田 ほか多数
新潟県長岡市 蔵王町
滋賀県日野町 蔵王(西蔵王、南蔵王)
滋賀県日野町 蔵王ダム
広島県福山市 南蔵王町

(2)大門(だいもん、愛知県蒲郡市大塚町)
大門だいもんは、大御門おおみかど大帝おおみかど=神皇正統のスメラミコト=天皇(または皇居)と解読します。

三河吉野朝の研究家・山口保吉氏は、この大塚町の大門について、下記のように述べています。(三河吉野朝に関連して命名された地名です。)

大門趾(宝飯郡大塚村大字大塚字大門在)
長慶天皇の御誕辰ごたんしんに因みて名付けし宝樹山長興寺の門前に松樹あり、大門だいもんあと曰伝いいつたう。右大門は保国山全福寺の総門にして十数町をへだたりたる所に位す。如何に其規模の広大なりしを知るに足らん。三河七御堂の主座と称せり。

「三河吉野朝の研究」110頁/1940年/新漢字新仮名遣いに変換し読仮名を付けました。

【参照】
宝樹山長興寺(蒲郡市大塚町後広畑)
御堂山全福寺跡(蒲郡市相楽町)

また、この大塚町は、この地に後醍醐天皇の副陵「天皇山」を建立したことから命名された地名で、大きな墓(御陵)の意義であり、牧平町大門の大宝天皇蒙塵の府は、大門(大御門おおみかど=正統天皇家)の墓場(蒙塵の地、蔵王、岩戸籠り)であることを表わします。

愛知県蒲郡市大塚町大門(地図マピオン)

(3)宮路山(みやじやま、愛知県豊川市赤坂町)
宮路山は大宝天皇の隠棲地いんせいちで「宮様のたどった路」をあらわす。

宮路山(みやじやま)は、愛知県豊川市にある標高362メートルの山岳で、三浦家の系図には、大宝天皇が炭焼きに扮装ふんそうして隠棲いんせいしていたと記されてありました。

宮路山は文字通り「宮様のたどった路」です。

愛知県豊川市赤坂町 宮路山(地図マピオン)

宮路山には、大宝2年(702)持統天皇の御幸があったことを顕彰する「宮路山聖跡」の石碑があります。

宮路山への持統天皇の御幸みゆきの真偽はとも角として、「持統天皇」「大宝2年」「御幸」「聖跡」は、

「皇統()を辛くも継承(保)した大宝天皇がこの地に隠棲していた」「聖跡」であると解読いたします。

三浦家の系図以外に、どこにも記録されていない大宝天皇に対する串呂主宰神(天地神明)の配慮(神経綸かみしくみ)だと拝察しています。

【参照】
🟡三河御津府御所の神風串呂1-持統天皇聖蹟説を徹底検証(第295号)

(4)大門(だいもん、愛知県岡崎市牧平町)
大門だいもんは、大御門おおみかど大帝おおみかど=神皇正統のスメラミコト=天皇(または皇居)と解読します。

岐阜県中津川市付知町大門
愛知県岡崎市牧平大門(正統天子の蒙塵の府、三浦芳聖の出生地)
愛知県蒲郡市大塚町大門

【串呂哲学の鉄則】
「蔵王山-大門-大門-大門-三浦山の神風串呂」のように、同一串呂線上に同文同種どうぶんどうしゅの地文が三つ存在している場合、これを「三串みつくしの串呂」といい、この場合は、大門三串だいもんみつくしの串呂といいます。
【解説】
三浦芳聖は、同一串呂線上に同文同種の地文が三つ以上存在している場合、これは特別重要な串呂で「絶対確証の串呂」といい、天地神明が重大なる事柄ことがら確定神示かくていしんじしていると述べています。同一串呂線上に同文同種の地文が二つ存在している場合、これを「二串ふたくしの串呂」といい、「確定立証の神風串呂」といいます。

三浦家の古記録によれば、愛知県岡崎市牧平大門は天皇蒙塵もうじんの地であり、大宝天皇が、享徳3年(1454)、天照大御神の御神諭により、皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称し、純然たる百姓となったことは、すでに「串呂哲学とは(1)」で述べましたが、それ以降、三浦家累代450年間の住居であり、三浦芳聖の出生地でもあります。

【参照】蒙塵もうじんとは「天子が行幸ぎょうこうするときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭からちり をかぶる意。天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。(goo辞書

(5)寺野薬師堂・大楠(てらのやくしどう・おおくす、岡崎市夏山町)
寺野の薬師堂は大宝天皇の行在所あんざいしょ、樹高で愛知県一の大楠で有名なパワースポットです。

岡崎市寺野
愛知県岡崎市夏山町「寺野薬師堂・大楠」(地図マピオン)

芳聖は〔此の「ちち薬師」の御堂こそは「大宝天皇」の御座所、即ち御所であったと見なければならないと思います。〕と述べています。(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』293頁)

地元の古老は、お参りすると母乳がよく出るようになるので、「寺野のちち薬師」と呼んでいますが、三浦家に伝承された記録には「大宝天皇」が御父松良天皇を陰暦8月8日(お薬師さんの正当日=縁日)の降誕ゆえ、薬師如来とし、その皇后を毘沙門天として隠祀したので「父薬師」と称したと記されてあったそうです。
(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』271頁)

【参照】薬師堂

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寺野ちち薬師の樹高で愛知県一の大楠

『天皇の本』(学習研究社137頁)には「阿弥陀如来の西方極楽浄土を仏教発祥の地であるインドに見立てると、極東にある日本こそ薬師如来のつかさどる東方浄瑠璃じょうるり世界ということになる。こうしたことから、日本では天皇がそのまま薬師如来に対応するとされた」とありますので
薬師如来=天皇という解釈が成り立ちます。

不思議な事に、この「寺野ちち薬師」には、樹高では愛知県第一位の大楠が聳え立っています。

この大楠は、額田町を紹介するホーム頁に下記のように出ていました。

薬師堂の屋根や村の家々を見守るかのように、それはそれは大きな枝を中央にかざし、巨大な根張りが雄大怪異で崖面に露出している。昭和43(1968)年11月4日に愛知県の天然記念物に指定された。樹齢千年、幹囲12メートル、根囲27メートル、樹高は何と36メートルあり、根元に立てばまさに霊感を覚える。

楠は、南朝大忠臣大楠公の楠であり、木偏を取れば南で南朝方のシンボルでもあります。

大宝天皇が皇威の回復を祈って岡崎市切越町で大般若六百巻を念書した話は、「串呂哲学とは(1)」で述べましたが、切越に近いこの薬師堂でも熱祷祈願されたことと拝察いたします。 

寺野薬師堂の大楠(「オカトピ」より転載)

(6)吉良見(きらみ、岐阜県恵那市明智町)国内唯一の地名
吉良見は「きらみ」と発音しますが、吉良は、よしながと読めますので「吉良見」は「よしながをみよ」と読み、「美良よしながを見よ」という意味に解釈します。

明智は「明らかに知れ!」或いは「明智を以て」美良(よしなが)を見よ!と読み解きます。

この串呂には、「三浦」―「吉良(美良)」―「蔵王」と、大宝天皇(御名美良)が、三浦(藤太夫)と称して、岩戸籠りしたことが秘められているのです。

吉良見
岐阜県恵那市明智町 吉良見(地図マピオン)

三浦家の古記録(系図その他の文書)の美良よしなが(大宝天皇)の箇所を見なさい、すなわち美良天皇が天照大御神の御神諭ごしんゆのまにまに三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りをされ、この串呂線上の牧平大門に移住した経緯を見なさいと解釈できます。

三浦芳聖の著書によれば、「三浦家の遠祖、大宝天皇(美良)は、応永元年(1394)、遠州京丸(静岡県浜松市天竜区春野町小俣)にて降誕。

御父は松良天皇(正良)、御母は長慶院法皇(寛成)の王女綾子姫。樵夫きこりに扮装して山から山へと落ち延び、応永17年(1410)、三州萩(豊川市萩町)に於て御父松良天皇より譲りを受けて践祚。

懸賞つきで探索する幕府の追跡をかわしつつ、宮路山(愛知県豊川市)、三州作手(同県新城市)、桜井寺(同県岡崎市)などに潜行、永享10(1438)年、三州額田郡切越(同県岡崎市切越町)に隠棲した。

三州夏山の寺野に薬師堂を建立し、御父・松良天皇、遠祖・尊良天皇を隠祀し菩提を弔った」とあります。

大宝天皇は、享徳3年(1454)、天照大御神の御神命のまにまに三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りされた経緯は、「串呂哲学とは(1)」で述べたとおりです。

(7)大門(だいもん、岐阜県中津川市付知町)
大門だいもんは、大御門おおみかど大帝おおみかど=神皇正統のスメラミコト=天皇(または皇居)と解読します。

岐阜県中津川市付知町(地図マピオン)

(8)三浦山(みうらやま、長野県木曽郡王滝村)
三浦山は三浦氏(三浦皇統家、三浦天皇)を表わします。

ここでは、三浦と名乗ったと解釈します。

即ち、大宝天皇が皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称し純然たる百姓となって民間に隠れたことを表わします。

三浦山
長野県木曽郡王滝村 三浦山(地図マピオン)

三浦山(長野県木曽郡王滝村)は、中央アルプス御嶽山の西南方に位置する標高2,393mの山岳信仰の山として有名。西南方に「三浦貯水池」「三浦ダム」などがあります。

三浦貯水池

この山が「みうらやま」と呼ばれるのは、鎌倉時代末期、三浦太夫を首領とした三浦一族が相模国から逃れてきて、安住の地を求め飛騨から鞍掛くらかけ峠を越えて三浦山のふもと三浦平みうらだいら(標高約1,300M)に落ち着いたところから命名されたと云われています。 

「三浦太夫」とは、三浦義明のひ孫「三浦介四郎家村」で、三浦太夫祭が挙行されたという記事が出ています。【参照】三浦太夫祭(王滝村滝越)

たくさんある姓の中からなぜ天皇が「三浦」という姓を選んで名乗ったのかという問題については、直接的には「皇后三浦佐久姫の姓を名乗ったから」と言えますが、この件に関する天地神明の神経綸かみしくみは深遠なものがあり、また別のところで考察することに致します。

(9)大日岳(だいにちだけ、富山県中新川郡立山町芦峅寺)

富山県大日岳
富山県中新川郡立山町芦峅寺 大日岳(地図マピオン)

天照大御神すなわち天皇を表す。大日は仏教の大日如来の事で『天皇の本』(学習研究社・136頁)に

明治に神仏分離令が布告される以前、日本では、すでに大日如来は天照大御神と同一視されていた。天照大御神が太陽神であると同じく、無限無量の光を三千世界に照り放つ大日如来もまた太陽神であるから、両者は同じ神だという。

とあり「大日如来=天照大御神」は神仏習合の世界の常識であるようです。

霊的には天照大御神と天皇は一体であるという解釈も成り立ちますので、
「大日=天照大御神=天皇」と解釈することも出来ます。

芳聖は、大日を天皇と解釈していますが、大日=天照大御神で「天照大御神のご神命により」と解釈することも出来ます。あるいは、大日は天運循環して到来する光明輝く時代を表すとも解釈できます。

【参考資料】
ここでこの重要な串呂について少しだけ補足しておきます。この串呂は芳聖が串呂の存在を発見した、謂わば串呂哲学解明の入り口に当たる重要な串呂であり、人々に「神風串呂」の存在を認識させることが出来るか否かが掛かっている串呂哲学の根本ともいえる超重要な串呂です。

その為かどうかは別にして、「三浦山」の西南方(地図上の直線距離で)16キロメートルの地に、昭和20年(1945)「三浦ダム」が建設され、流域面積69.4平方キロメートルという広大な「三浦貯水池」が出現し「三浦山」を頂点とする東西南北各々20キロメートル幅の広大なるダイヤモンド型の「三浦山ゾーン」が形成されたのです。

東西南北20キロメートル幅の広大なるダイヤモンド型の「三浦山ゾーン」(国土地理院地図)

この一事からも、串呂主宰神の神力しんりき万能ばんのう無限で、われわれ人間の想像を絶する規模の、偉大なるものである事を垣間見ることが出来ます。

三浦ダム
三浦貯水池

裾野の幅、東西20km幅の「三浦山ゾーン」と東西10kmの「蔵王山」とを結ぶ、ローソク型の極太串呂が、日本列島の南北を貫くように形成されているのです。

これこそ串呂中の幹呂かんろであり神呂かむろです。

串呂哲学の根本ともいえるこの串呂への串呂主宰神の思い入れの深さがご理解いただけるかと思います。

【参考資料】三浦貯水池・三浦湖(長野県木曽郡王滝村三浦国有林内)
昭和20年(1945)に完成した三浦ダムによる貯水池。流域面積69.4 平方km。王滝川最上流のダム。建設中には3千人もの人々でにぎわう町ができたという。

(10)朝日町(あさひまち、富山県下新川郡)

富山県朝日町
富山県下新川郡 朝日町(地図マピオン)

朝日町は夜明けを表わす。朝日町は大日岳と同じく太陽(天照大御神)を表しますが、朝日は夜明けのシンボルです。

天運循環の暁には真実が解明される(夜明けの)時が来ると解釈致します。いま、こうして研究の成果を発表できることが「夜明け」を迎えた証拠です。

今から560余年前の1454年に人知れず民間に隠れた正統の天皇の御事蹟が明らかとなって来たのです。まさに天運は循環して夜明けの太陽が昇り始めているのです。

「朝日町」は大きな町ですが、この串呂のために出来た町だと確信しますので、三浦芳聖の著書に有るとおり、町全体をひとつの地文(団子)として取り上げました。

「蔵王山」と「三浦山」を結ぶ串呂はローソク型の極太串呂だと述べましたが、この極太串呂が「朝日町」全体を指し貫いているのです。

下記の神風串呂と、この串呂地文を比較してみてください。とてもよく似ていることが分かりますね。

蔵王山ー牧平町大門-🟢三浦山-🟠大日岳-🔴朝日町
🟢三浦峠―🟠大日岳―⛩内宮―🔴日出町―大御神

【参照】皇大神宮内宮から「佐久」を鑑る! (№6)
〽三浦峠-〽大日岳-⛩皇大神宮内宮-日出町-佐久-大御神

3、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

〽蔵王山-大門-〽宮路山-大門-寺野薬師堂・大楠-吉良見-大門-〽三浦山-〽大日岳-朝日町

この神風串呂の意味を三浦芳聖が解明した解釈を基に、現代風に分かりやすく述べますと、「天皇が民間に隠れた。その天皇は正統の皇位を継承した大宝天皇(美良)で、牧平大門に移住して三浦と名乗った。大日すなわち光明輝く天運循環の暁には真実が解明される(夜明けの)時が来る。」となります。

🟡この串呂は、天地神明が神皇正統の天皇の蒙塵(天の岩戸篭り)を昭示するもので、誠に神秘的というほかありません。

🟡この串呂の「大日岳」「朝日町」は、天の岩戸篭りが単なる「神皇正統家の終焉ではない」ことを明示する地文と云えます。そこには人智では推し量ることの出来ぬ、天地神明の悠久の経綸があるように思います。

🟡日本には山岳がたくさんありますので、同一方角線上に山が四個串呂しても不思議はありませんが、その地文(山岳名)が普通ではありません。

🟡三浦芳聖は、父親が今わの際に絶叫した「奥郡の蔵王山から木曾の三浦山を見よ!」を聞いてからこの串呂を解明するまでにおよそ満13年という歳月を要したと述懐しています。

🟡この串呂は、大宝天皇の御座所跡(宮路山、寺野薬師堂、牧平大門)を3つも通りますので「実証の串呂」といいます。

🟡古来言及されてきた「百王説」は本当だったのです。神皇正統の天皇はおよそ百代で天の岩戸篭りしていたのです。後醍醐天皇を第95代と数えると大宝天皇は第百代の天皇にあたります。

🟡なぜ神皇正統の天皇は、天の岩戸篭もりをしなければならなかったのか。おおいなる飛躍のための内省、内観の時を持つためではないだろうか。あるいは国際金融マヒィアの魔の手から逃れるための一時的緊急避難か!

🟡三浦家の当主が一子相伝(大宝天皇を初代とすると三浦芳聖で18代目にあたる)に極秘で伝承した古記録が正しい事を証明する神風串呂です。


🟡バックナンバー総合

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№2)
串呂哲学とは(2) 串呂哲学の解読法
🟢次号(№4)
二所の宗廟から牧平大門を鑑る!
(藤太夫島 と佐久島)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。