三浦芳聖の昭和20年8月24日(串呂哲学研究ノート№222)
1、ゆすりたかりの国際社会
(1)RED凶惨帝国からの威嚇
これはボケ老人の妄想です。M師の50年祭に当り実施した遺徳顕彰活動も一段落した私は、松葉エキスジュースや松葉サイダー、十薬エキス発酵液などで免疫力を高め、毒チン禍社会を生き抜こうとしていた所、
「台湾有事に日本が首を突っ込むなら降伏するまで核ミサイルを撃ち込む」という衝撃的なニュースに接し「さもありなん!」と心を痛めていました。
【出典】台湾問題で首を突っ込むなら日本が無条件降伏するまで「核攻撃」六軍韜略(中国共産党)ー馬渕睦夫が語る虐殺とウクライナ問題の真実
【参照】「日本が台湾有事に武力介入すれば、中国は日本を核攻撃すべき」という動画がアメリカで拡散
(2)ゆすり・たかり-共同謀議か?
こうした一連の情報戦の裏で「核攻撃されたくないなら金を出せ!」という「ゆすり・たかり」が行われている!という直感がありましたが、私は暑さによる「ボケ老人の妄想だろう!」と忘れようと思いました。
ところが、令和3年(2021)8月24日早朝の正夢で「ゆすり・たかりの共同謀議が行われている!」というお告げを受けてしまいました。
それは、武器商人であるMAGA帝国と悪役RED凶惨帝国と支援要請役であるTAIHEN島国が示し合わせて、お人好しの窮状王国からTAIHEN島国への武器援助名目で数兆円か?と思われる資金をゆすり取り、裏で山分けしているというものでした。(これもボケ老人の妄想であってほしいです!)
2050 極東マップ
(3)国家と民族を売った窮状王国「アセット皇帝一家」
こうした悲惨な現実から抜け出すためには、「国体護持」という美名のもとに一身一家の保身を図り、占領国(実はイルミナティ・カバール)のアセット(資産)に成り下がった永久属国王・アセット皇帝一家に責任があることに目覚めなければなりません。
武器商人が支配するMAGA帝国と戦って退けた「ベトナム社会主義共和国」やアフガニスタンのイスラム原理主義組織「タリバン」のように、如何なる犠牲を払っても負けてはならなかったのです。
毒チンで殺処分にされている窮状王国の現状を見れば、昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾に当って「無条件降伏、断じて有る筈がない!」と再宣戦布告を要請しようとした三浦芳聖の判断が如何に正しかったかご理解頂けるのではないでしょうか(詳細は後述しました)。
【参照】昭和天皇の総括 太田龍 講義
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、三浦芳聖の昭和20年8月24日
(1)空襲に遭遇し宝飯郡音羽町萩村に疎開
昭和20(1945)年1月3日、米軍の名古屋空襲により中部国民道場兼自宅が全焼し、着の身着のままとなった三浦芳聖は、2月4日妻子を連れて家族六人、愛知県宝飯郡音羽町萩村(現豊川市萩町)上近久に疎開しました。
疎開先の萩村上近久は、四周山で囲まれた僻村で、回りは、人家が一軒も見えないトタンぶきの番小屋(伊藤という元小学校長が、辞職後作った元温室)で、広さは8畳ほどのまことに粗末なもので、その裏を山陰川(賀茂川)という小川が流れていました。
(平成15年12月、特別養護老人ホームが出来た萩町上近久)
当時、三浦芳聖は大政翼賛会の愛知県支部練成部長、名古屋市翼賛壮年団総務という要職にあり、県下の幹部を練成するため出張の連続で、席の暖まる暇のない多忙な毎日を過ごしていました.。
大政翼賛会は、昭和20(1945)年6月13日まで存在していました。従って、このとき三浦芳聖は、経済的に困窮していたわけではなく、敢えて遠祖・松良天皇が隠棲されていたゆかりの地に疎開したという事になります。
また昭和20年(1945)は、明治37年(1904)9月生まれの三浦芳聖にとって、男の大厄(42歳)に当たる年でありました。
松良天皇(正平18年/1364年8月8日~応永24年/1417年5月24日)は、元中5年(1388年)頃、足利義満率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士の皇居が落城したため、静岡県京丸に一時駐留後、応永17年(1410年)頃、萩村に隠棲していました。(詳細は「松良天皇(正良)」を参照ください。)
(2)無条件降伏、断じて有る筈がない!
昭和20年(1945年)8月15日、午後1時ごろ、愛知県宝飯郡萩村の村長、助役等数名の人々が、三浦芳聖の寓居に訪ねて来て、大変興奮した様子で「只今天皇陛下の御放送がありまして、ポツダム宣言を受諾して我が国は無条件降伏だそうです!」と投げ出すように言ったかと思うと声を上げて男泣きに泣きだしました。
大政翼賛会の元幹部で指導的立場にあった三浦芳聖は、下記のように訓示して村長以下の人々を叱り飛ばしました。
「我が国体上、かかる事は断じてあるべからざる事である。既に沖縄が占領せられたから敵国の民心攪乱のデマ放送だ。村長を始め村の幹部が左様なデマに乗るような事で何とする。畏くも天皇陛下が
と宣戦の大詔を渙発(かんぱつ)あらせられた以上、一億悉く忠死すと雖も此の宇宙絶対の至上命令に直往(ちょくおう)邁進する処に天壌無窮の国体の真生命が躍如として生きるのだ。
原子爆弾が投下されようとソ連が参戦しようと、敵が本土へ上陸しようと只管に東亜永遠の平和の為に聖戦貫徹に直往邁進する時、初めて至誠通信、御詔書に仰せ遊ばされたる『皇祖皇宗ノ神靈 上ニ在リ』即ち天佑神助は必ず降るのである。
宇宙に向かって堂々御宣言遊ばされたる至尊が、上は皇祖皇宗の天佑神助を放棄し、下は忠誠勇武なる臣民への信倚を放棄して無条件降伏するが如き事があり得るか。
若し絶無の事を仮に設けて云わんに、かくの如き事が若しそれありとすれば、天孫降臨以来の天壌無窮の国体はその時滅びるのだ。恐らく皇祖皇宗の神霊は、君は継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ずとして否定遊ばされるであろう。
至上絶対普遍的真理の顕現で在らせらるる陛下が、左様な御放送を遊ばされる事が断じてある筈がない。デマに乗ぜられては駄目ではないか」
すると村長が「村民が学校の広場に詰めかけているから、役場へ来て村民にその事を話して頂きたい」と懇願したので、芳聖は役場へ行き、集っていた村民に向かって
「皆ラジオで陛下の御放送を聞いたと言うが、然らば今日までに陛下の御声を聞いた事のある者が一人でもあるか!私はラジオが無いから聞かなかったが、左様な事は断じてある筈はない。私は只今から御油署長の伊藤可一警視に電話をかけて確かめるから」
と訓示したあと、やっと通じた電話で無条件降伏を確認すると、芳聖は、その場にいた村民一同と共に、しばしの間嗚咽(おえつ)して泣きました。
(3)切腹自裁を決意
三浦芳聖は、目を泣き腫らしたまま、何時しか200人近くも集った村民を前にして、
「天皇陛下に於かせられては、これ以上赤子を殺したく無い、自分は如何様になるとも国民を一人でも救いたいという親心を以てポツダム宣言を受諾遊ばされたのだ。無条件降伏をして、敵国軍が皇土を無血占領して天皇陛下を戦争の最高責任者として俘虜としての侮辱を与えらるる時、我々国民として生きて居る事が出来るか。君辱められば臣死すと云うのが我々三ツ児の魂として教育せられ、之が我々父祖伝来の魂である。
お上は親心を以て皇祖皇宗の御神霊から継体の君に非ずと御否定になる事も御覚悟の上で、赤子に仁愛を垂れさせられたのである。我々臣子の本分として之が甘受出来るものではない。もう一度元に戻して戦わして頂き度いと奏請し奉るが我々国民としての本分と考える。
私は、只今から直ちに愛知県庁へ出頭して東海北陸地方総監に面会し、民意を代表して、もう一度国民が戦わして頂きたいと斉しく仰望しているから、地方総監として直ちに上京奏請の手続きをして頂くよう取り運び度いと思うが諸君のお考えは如何であるか」
という趣旨の演説をした所、村民はみな異口同音に「是非お願いします!」と言って賛同し、反対した人は一人もいませんでした。
三浦芳聖は8月15日、名古屋へ出て、翌日やっと小畑忠良・東海北陸地方総監に会い、声涙共に下って切々と訴えたが、最早どうする事も出来ない事が分かり、警察のお世話になって、17日萩村に帰りました。
しかし、それでも芳聖は、中央の同志が局面を打開してくれる様な気がして期待していましたが、22日、実兄の三浦延治から連絡があり、「わが国の降伏、米軍の無血占領が決定的となった」ことを知らされたので、23日、家族を妻の実弟宅に送り届け、自分は萩の疎開先へ戻って切腹自裁する決意をしました。
(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法-神界伝法』8頁~11頁、1955年、要約、読み易くする為、改行、句点を補う等、編集致しました事をお断りします。)
(4)開戦の詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
(中略)
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日
(5)玉音放送(終戦の詔勅)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(後略)
【解説】
(1)朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・開戦の詔書の「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇」「皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ」は偽り(西園寺八郎の子)。
(2)朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ・・・敗戦を受け入れても戦犯として追放されず、今まで通り帝位を保つことが出来る。
(3)堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ・・・戦勝国の属国として屈辱に甘んじて生きることを決意した。
(6)切腹自裁を決意
昭和20年(1945)8月15日、午後、大日本帝国政府がポツダム宣言を受諾して敗戦・降伏を決意し、米軍の無血占領が不可避である事を確認した三浦芳聖は、即日、名古屋へ出ましたが、その日は目的の東海北陸地方総監に会う事が出来ませんでした。
芳聖は、翌日やっと東海北陸地方総監「小畑忠良」氏に会い、声涙共に下って言々切々と訴えましたが、もはや如何ともする事の出来ない事が分かり、警察のお世話になって、17日萩村に送り届けられ、御油警察署長から厳重監視をして頂く事になり、実兄の三浦延治は、小畑総監の依頼を受けて芳聖を説得に来てくれました。
芳聖は、それでも、中央の同志が局面を転換してくれる様な気がして期待していましたが、22日、実兄の三浦延治から連絡があり、「在京同志のあらゆる苦心も水泡に帰し、結局米軍の無血占領となるが、将来日本再建のため大切であるから、飽くまで自重して軽挙妄動せぬように」との事でした。
かくして芳聖は、国体信念の上から臣子の本分として切腹してお詫びする以外に道は無いという結論に到達しました。
(7)天照大御神の御神諭
芳聖が、切腹自裁せんとした、その間一髪の時、全身が電気に触れた時のように痺れたかと思うと、約3尺(1メートル)前方に等身大の女神のお姿の天照大御神がご出現になられ、「天照大御神である!」と仰せになられたので、その神々しい御威厳に打たれ、芳聖は思わず平伏しました。
汝は、神皇正統嫡皇孫、天津日嗣のスメラミコトであります。私に勝手に死ぬことは許しません。
汝は、往昔、大宝天皇が祈念せし、五皇一体の再現・八幡大明神である。その八幡大明神として、この世に出現した使命を全うする迄は、勝手に死ぬことは許しません!
現在、日本は、かかる浅ましき有様となりましたが、これより36ヶ年後の昭和56年・辛酉年・正月元旦には、往昔・神武天皇が橿原の宮に即位せし如き状況が世界的な規模に於て行われる。
この36ヶ年を四期に分けて、第一期の9ヶ年(昭和20年~昭和28年)は、あらゆる難行苦行をして、己が神皇正統・天津日嗣のスメラミコトに絶対間違い無いという大確信に到達しなさい。
第二期の9ヶ年(昭和29年~昭和37年)は、これまで研究してきた神風串呂を解明して、己が神皇正統・天津日嗣のスメラミコトである事を天下に公表しなさい。
第三期の9ヶ年(昭和38年~昭和46年)は、神界伝法の特別秘法祭祀を以て往古の神武天業恢弘の神業を厳修しなさい。
この期間は世界的大変転の時期にて大艱難大苦心、ある時は餓死寸前を彷徨し、ある時は死一歩前の危険に身を晒すが如き事あらんも、飽くまで全人類は勿論、山川草木悉皆に至るまで、その処を得せしめざれば止まざるの不退転の覚悟を以て邁進する時、必ず天佑神助は降る。
第四期の9ヶ年(昭和47年~昭和55年)は、神国再建を成し遂げ、昭和56年に至り、天皇御稜威の下、全世界の平和を克ち得て、皇紀2641年・辛酉年正月元日(昭和56年2月11日)には、往昔神武天皇が橿原宮に即位せられ、六合開都・八紘為宇の大宣言を為されし時の如き大盛事が世界的規模にて行なわれる。
依って汝は此の大聖業を完遂し、尚その後、百歳まで天寿を全うして此の大聖業の完きを期するのであるから、この天与の使命を忘れて私に勝手に死ぬ事は許されない。
之より後、ありとあらゆる大試練が与えられ又その反面には内外の悪神邪霊の総攻撃を受くるならんも、能くこの大艱難・大苦辛に堪えて天与の使命を全うせよ。
(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』11頁/1955年、他の資料要約編集。読み易くする為、改行、句点を補う等、編集致しました事をお断りします。)
この続きは下記を参照ください。
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
情報拡散のお願い
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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