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発想を反転すれば意識が波動関数を収縮させても不思議ではない

物理的に波動関数が収縮する理由がないため、「測定には意識が重要な役割を果たす」という量子力学の解釈が出てくる。Wikipediaでは、

フォン・ノイマン=ウィグナー解釈は、量子測定のプロセスの完了に意識が必要であると仮定される量子力学の解釈である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E8%A7%A3%E9%87%88

と記載されている。孫引きとなるが、

量子力学では扱えない外部の観察者、つまり人間(そしておそらく動物)の心が存在し、その心は脳の測定を行うことで波動関数の収縮を引き起こす。

Schreiber, Zvi (16 January 1995). "The Nine Lives of Schroedinger's Cat" (英語). arXiv:quant-ph/9501014。

ということである。この解釈は、

その前提には理論的裏付けがなく、実験による確認もされていない。複数の検証不可能な仮定の積み重ねに基づいており、科学理論としての要件を満たしているとは言い難い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88

と批判されている。また、

この解釈は、脳を理解するために一般的に用いられ、ほとんどの科学者に受け入れられている唯物論と矛盾する相互作用主義の二元論に依拠している(唯物論は、意識が量子力学に関して特別な役割を持たないと仮定している)。多くの科学者は物理学の因果的閉鎖を擁護する。つまりこの解釈にはデカルトの実体二元論への反論を彷彿とさせる、意識と物質がどのように相互作用するかという問題があると示唆している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E8%A7%A3%E9%87%88

とも批判される。そんな難しいことを言わなくとも、意識が(脳の中のものが)その外の状態を変える力があるというのは、そもそもどう考えてもおかしい(ありえない)。それが大半の自然科学をある程度習得した人の当たり前の意見であろうと思う。

収縮は認知の限界に過ぎない

しかし、発想を逆転すれば、意識が波動関数を収縮させるというのは、単に意識が認知できるのが外界の一部に限られるということでしかないともいえる。これなら不思議でもなんでもないだろう。

人間は、コウモリのように音波で外界を認知することはできない。人間は、昆虫のように紫外線を見ることはできない。逆に昆虫は赤色を認知することはできない。このように、外界の一部しか認知できないのは当たり前のことである。同様に(制限の種類は異なるが)、重ね合わせの状態のうち、一つの状態しか意識は認知できなくても何の不思議もない。単に人にはその能力がないというだけなのだから、不思議でもなんでもないだろう。人が紫外線を見ることができないのを不思議がる人はいない。

認知の限界の連鎖

「認知できなかった」と「波動関数が収縮して大部分の波動関数が無くなった」が同じことの言い換えになるのは、認知できなかった方の波動関数を認知した他人を認知することがないからである。認知できなかった方の波動関数を認知した動物を認知することもない。このように、波動関数を部分的にしか認知できない現象は連鎖していくため(その連鎖は完全で例外がまったくないため)、自分が会う(会うということは認知するということである。)全ての他人、全ての動物は同じ波動関数を認知しているか、そもそもその波動関数を認知していないかのいずれかである。波動関数のうち認知しなかった方の波動関数を認知した人に会うことはない(その認知しなかった方の波動関数と相互作用したと考えられる波動関数を認知した人に会うこともない。)。そのため、その認知されなかった方の波動関数は無くなったのと同じである。無くなっていないと考えるべき理由は特にない。そのため、「認知できなかった」と「波動関数が収縮して大部分の波動関数が無くなった」は同じことの言い換えと考えることができるのである。

月が地球の反対側に移動して月が見えなくなっても無くなったのではなく、単に見えなくなったと考えられるのは、地球の裏側にいる人は月を認知できるからである。はるか遠くに月が移動して地球からは誰も見えなくなったとしても、近くに移動すればみえるだろうし、近くで見た人が地球に来て月を見た話ができる可能性があるだろう。しかし、波動関数の部分的な認知においては、そうしたことは起こらない(今までの人類の経験の中で起こったことはない)。そのため、その前提のもとでは(認知されなかった方の波動関数を認知した人に会うことを人類が経験するまでは)、「認知できなかった」と「波動関数が収縮して大部分の波動関数が無くなった」は同じ趣旨の言い換えであると言ってもよい(私は良いと考える。)。

まとめ

このように、「意識は波動関数を収縮させる」は、「意識が認知できるのは波動関数の一部(重ね合わせのうちの一つだけ)であり、その認知の限界はその人のその後の認知に連鎖する」と同じ意味である。繰り返しになるが、意識の認知能力に限界があって、全てを認知することができないというのは不思議なことではないだろう。
認知の限界が連鎖する(一度認知されてなかった波動関数はその後もその波動関数が相互作用した波動関数を含めて認知されない)ことは不思議かもしてないが、人類がこれまでに経験していることはすべてそれにあてはまっていて例外を経験したことはない。ある意味、認知の限界が継続するということであり、それぞれの人により感じ方は異なると思うが、限界が継続することを不思議に思う必要はないだろと私は思う。また、量子力学とも整合的である。その点は、数式ばかりのわかりにくい記載であるが、以前に「量子論的随伴現象説(Quantum Epiphenomenalism)」に書いた。数式用いない直感的な説明を思いついたら、また書いてみたい。

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