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トンネル効果:「机をたたき続けると手がすり抜ける」という説明について

一般向け書籍やメディアで物理学者が量子力学のトンネル効果を説明をするときに、「机の表面を叩き続けると、手がすり抜けます」と解説することがあります。これはもちろん分かりやすさのための方便ですが、大雑把にその物理の面白さを伝える良い説明として、広く定着しています。

トンネル効果は主にミクロな対象で起きることが知られており、例えばコンピュータ内の超微細な集積回路では、このトンネル効果のために電子が隣の導線に飛び出して漏電を起こし、高熱を発しています。

ところが「手」のようなマクロな対象がトンネル効果を示す確率は、例えば10のマイナス10の33乗々(つまり10^(-10³³))程度の小ささになったりします。これは現実的には零ですね。

もし生真面目な人が手のトンネル効果を確かめようとしたときに、実際には何が起きるのでしょうか。もちろん自分の手で何回も机を叩いても、よほど(よほど!)運がよくない限り、トンネル効果は決して観測されません。でもここでは思考実験として、その人が実験を無限回繰り返すことができるとしてみましょう。すると確かに手が机をすり抜けることもあるでしょう。

でもたとえば、トンネル効果が中途半端で、机を作る物質中に手が埋まったままになる「残念なこと」を、想像したことはないでしょうか?手の波動関数を考えれば、トンネル領域でもそれは非零です。そこで手の位置測定をすれば、低い確率ですが、トンネルの中に手を発見できます。つまりトンネルである机に埋まった手が見つかるのです。

これは力を入れ過ぎて、手が机を破壊するというイメージではありません。このトンネル効果の思考実験では、手を作っている1つ1つの粒子に対して机のポテンシャルを超えない程度の低エネルギーを考えることが大前提です。手は非常に柔らかに机に当たっています。

このトンネル効果の思考実験には、物理として本当はしっかりと考えるべき2つの要素が隠れています。その1つが位置測定にかかるエネルギーコストの問題です。

実験の初期時刻には、手はトンネル領域(机の領域)にはありません。ですから、その波動関数も最初はトンネル内では零です。時間とともにその波動関数の一部が机のポテンシャルを透過しはじめて、反対側へと抜けていきます。

波動関数が零ではないので、位置測定を実際にするならば、トンネル領域に手が見つかる確率も零ではありません。でも見つかったその手は、初期に持っていた運動エネルギーよりも大きな、そして同時にトンネル領域のポテンシャルエネルギーよりも大きなエネルギーを持つことになります。ではこのトンネル効果はエネルギー保存則を破るのでしょうか?答えは「トンネル効果でもエネルギー保存則は厳密に成り立つ」というものです。足りないエネルギーは位置測定機から観測される対象に供給をされるのです。またそういうエネルギー供給が十分にできる測定装置でないと、トンネル領域での位置測定は正確に実行することができません。このことについては下記記事をご参照ください。

量子力学は実在論ではなく、情報理論です。「もし○○という測定を仮にしたならば、△△という事象がこういう確率で観測されます。」と教えてくれます。もしその事象の発現に高いエネルギーが必要ならば、「その測定装置がそのエネルギー注入を実現するように設計しないと、その実験はうまくいかないよ」ということまで、量子力学は教えてくれています。トンネル領域で波動関数が非零だからと言って、それから計算できる確率で自動的にいつでもそのトンネル領域に物体が見つかるというわけではありません。そういうエネルギー供給をする測定機を用意することが、大前提なのです。

手のようなマクロな物体のトンネル効果の思考実験では、位置測定のエネルギーコストだけが問題ではありません。手を作る多数の粒子の相互作用が起こす多体効果も無視できません。これは、1つの電子のトンネル効果とは異なる側面を持っています。

たとえば簡単のため手の代わりに、互いに引きあう多数の粒子が作っている塊が机にぶつかる状況を考えてみましょう。個々の粒子がもつ運動エネルギーは机のポテンシャルエネルギーよりも小さくします。古典力学で考えれば、その塊全体は机に完全に跳ね返されてしまいます。でも量子力学のトンネル効果を考えると、ある小さな確率で机をすり抜けられます。ただし上で説明をしたように、エネルギーを供給できる位置測定をトンネル領域で実行しなければ、エネルギー保存則から、塊全体が机の内部のトンネル領域に見つかることはありません。

ただし多体系では、電子単体ではなかった例外的なことが起きます。塊の中の粒子たちは互いにエネルギーのやり取りをできるので、少数の粒子にだけに塊全体の運動エネルギーを集中させることで、その一部分だけはポテンシャルの壁を越えることができるようになります。この場合には、古典力学においてさえも、その一部分は壁を越えていけます。もちろん大多数の他の粒子はポテンシャルを超えることはできないのですが、その塊の一部分だけが机をすり抜けるのです。たまたまその少数の粒子の運動エネルギーもポテンシャルエネルギーとほぼ等しくなれば、机の中で止まってしまいます。

またエネルギーを集中した一部分でもエネルギーがまだ足らずに、ポテンシャルエネルギーの壁をまだ超えられない場合もあるでしょう。その場合でもある確率で、純粋なトンネル効果によってその一部分だけが透過してしまう現象も起きます。

熱浴などの外部環境系と注目している対象が相互作用をする場合には、その対象がトンネルをする確率もその環境系に依存をしてきます。このように相互作用をする多粒子系ならば、単に1つの塊として机を透過するという現象ばかりでなく、もっと多様な現象も同じ実験で観測をされるのです

物理学者がトンネル効果を一般の方に説明をするときに、「手が机をすり抜ける」と簡単に解説をする場合でも、実はその背後にはこのように豊富な物理が隠されているのです。



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