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人はなぜ生きるのか


人が「なぜ生きるのか」と考えるなどは時間の無駄ですか?
確かに、人は誰も自分で生まれてきませんから、これは大きな難問です。
それでも心身は生きようと努めているので、人は自然には生きます。
しかしその一方で、病気や老化、突然の死など、命は常に危機に曝され、人はその危うさの中で生きなければならず、この自然の相反する現実はどういうことなのでしょうか。そこで、命あるものは死ぬのが当然だと言うのなら、今生きているのは当然ではないと言っていることになります。では当然でない今の命はどこから、何のために来たのでしょうか。
また、人は自分の存在に価値も見出したいと願うのが自然で、それを失うと人格的な問題に陥り、自死に至る危険さえ生じ兼ねません。

「人はなぜ生きるのか」、これに似た問いに「人生の目的は何か?」や「なぜ生まれてきて、死ぬのだろう?」などもあるでしょう。
こうした質問をする時期は、青年期に多いようですが、それは社会に出て、考える間もなく生きるための日常に追われる日々に入る前だからなのでしょうか。
あるいは、若者でなくとも、今日もどこかでこの問いを思い浮かべている人もいることでしょう。

さて、あれはもう随分と以前のことで、おおよその内容をここに書くことになりますが・・
ある中学校では自殺する生徒が出てしまいました。
校長先生は、全校生徒の前で「死んではいけない、強く生きなさい」と訓示したそうです。

しかし、ひとりの女生徒は新聞(朝日)に投稿して大人たちに尋ねました。
「死んではいけない、強く生きなさい」と言われましたが、どなたか生きる理由を教えてください。
生きる理由が分からないのに強く生きることはできないとも、この女生徒は書きました。

これに対して、様々な返答が寄せられたものです。
おおよそ要約すると、次の三種類に分けられるように見受けられました。

「生きる理由は、生きているうちに見つかる」。
「人は生かされているのであって、理由はないが懸命に生きるべき」。
「人を愛しているので生きようとする」。

ですが、その女生徒はこれらの回答に感謝しつつも、満足せず、同じ問いを投書します。
やがて大人たちは、ひとつのことを共通の認識としていったように見受けられました。

つまり「人はなぜ生きるのか」との質問の答えは、人それぞれになり、すべての人に当てはまる確定的な答えが無いということです。

それでも、大人たちの回答にはそれぞれ真実が含まれていたように思えます。
人は何かに打ち込んでいると、それが生きる理由や目的のようになってくるものです。
また、わたしたちの誰もが、生まれようとしてこの世に来たわけではありませんから、確かに「生かされている」という感覚もうなづけます。
そして、誰かを愛するゆえに生きようと努めることも、まことに価値ある理由と言えましょう。

では、これらに何が足りないものがあったのでしょうか?

これらの回答には共通するものがあります。
それらは、自分の意志によらず、いつの間にか生まれていた人間の側から、その存在の理由を自ら考え、何とか作り出そうとしているところは同じなのです。 しかし根源的な答えはそこにありません。人は皆、自分から生まれてきたのではないからです。なぜ生きるかの解答は人の限界の向こう側にあると言えましょう。

これを例えると、様々な用途に使うことのできる複雑で精巧な機械が動いていても、本来何の目的で作られたのか分からないという状況に似ています。製作者も不在で、その機械の本当の存在意義が分からないのですが、とりあえず動かせるので使われてはいます。
この機械が何のために作られたのかは、製作者にきいてみないことには本当のところは分からず、そこでそれぞれに考えられる答えを並べるばかりです。自分なりの答えで満足する以外にないからです。

そして今日も、せっせと出来る仕事をこなして忙しく過ごします。ですが機械にはあちこち不具合が出るようになり、やがて仕事を行うこともなくなりスクラップとされます。
人がこの機械のようであれば何と空しいことでしょうか。確かに人間は機械ではなく人格を持っていて自らを価値あるものと判断します。それはただ生きて居たいという願望によるばかりでなく、自分にしても他の人にしても存在価値を深く感じているからです。その価値観は愛着や敬意となって人と人とを結びつけています。ですから人は故人の死を悼み、去ってゆくことに空しさや損失を感じ取ります。

そこで人は宗教を介して、この空しい現実から人の価値を守ろうとしてきました。
一つには死後にも霊魂が残り、霊界のような場があること、また死は故人の旅立ちであり別の世である彼岸に去った、または輪廻による転生を遂げることになるとの教えや、遥か西方の理想の地へと移されたという教え、イスラム教であれば生前の行いによって死後の行く先も分かれてそれぞれの酬いを受けることになりますし、「教会のキリスト教」であれば死後に人は天国に召されたと言われるでしょう。ユダヤ教なら人は死の眠りに就いて復活を待つことになります。

これらのいずれもが、空しさを感じさせる死という現実から人の価値を守るための方策となっているところは同じといえるでしょう。ただ、言われている事柄はそれぞれバラバラで、誰も証明することは出来ません。例え、「故人の霊」などを呼び出せると称したところで、それは不思議ではあっても確かに故人そのものだと証明されるものではないのです。
結局は、人がそれぞれに自分を言い聞かせ得心するための物語であり、それはその人の中だけでの真理なのであり、それこそ「信仰」とされるべきものでしょう。

しかし、それでもこれらの「信仰」が有用であることは、広く社会にも認められてきたことで、多くの民主的な社会では思想信条の自由によって保護され、それがどのようなものであれ、実害のない限りは排斥されることなくそれらの信仰も尊重されています。何を信仰するかは個人の権利とされ、人の存在価値がそれら信仰によっても人々の内面から支えられているという点は無視できないことでしょう。例え、それが夢想のようなものであったにしても、人が生きるのを支える力となり得るからです。

ですから「なぜ生きるのか」を問われるときに、人々の答えがそれぞれになってしまうということは、宗教の唱える死後のありさまがやはりそれぞれになってしまうところに共通するものがあります。
つまりそれは、人と創造者との間に隔ての壁があるということを教えます。
もちろん、創造者など居ないという異議も可能ですが、そうであれば人間は偶然の所産に過ぎず、有用さ以外に価値を与える根拠を失うことになるでしょう。それは全くの弱肉強食をもたらしますが、無神論が招いた闘争の悲惨な現実は、その結末を語るに十分であり、人が現実的に「偶然の所産」以上の貴い価値を持つことは明白です。ただ、それが本当のところ何であるかが、まるで霞が掛ったように分からないのです。

このように、人は自らの価値を感じながらも、その価値がなぜ与えられているのかを模索し続けてきたと言えるでしょうし、人の一生は、存在させたものとの繋がりが欠けているので、人はそれを見出そうと様々な宗教に問いかけてもきたと言えましょう。

結論としては、人は創造者との絆を得て、意思の疎通を持たない限り自らの価値も、なぜ生きるのかも正しく知ることはないでしょう。それは現状どこかの宗教に帰依することで得られるという安易なものであるわけもなく、神は人を地上を管理させ動植物を支配するために創られたと「クリスチャン」が言うとしても、それは創世記に書かれたままを繰り返しているだけのことで、むしろ重要な言葉は『神は自らの象りに人を創られた』の方に深い意味があることでしょう。そこに人の価値が凝縮されて語られているからです。(創世記1:27)

人が神の象りであるとすれば、人の価値の重みは神に依拠していることになり、それはいよいよ人が創造者との関わりを必要とする存在であることを際立たせます。

誰かが「生きる理由」を教えて欲しいと言うとき、その答えは人間を在らしめた創造者の許にあり、そうであれば現状でその確実な正解を得ることは誰であってもできない道理があります。
なぜなら、人々の解答も宗教の教えもそれぞれであるように、人間は神と隔てられている状態での、「信仰」が「信仰」であるうちには、正解は無いでしょう。

この点で、「人は神認識では白紙の状態で生まれて来る」と見抜いたジョン・ロックの言を待つまでもなく、神は「信仰」によって人に見出されるようにされているのであれば、人々の宗教がそれぞれに異なっているのも当然のことになります。
まさに、神が証明されたなら、そこで信仰は終わってしまうからであり「自然界が有限である以上、絶対的存在者はけっして見出せない」とイマヌエル・カントが断言するまでもなく、自然科学が神をけっして証明しないのは、『神が顔を隠されるなら、誰がそれを見られるものか』という聖書の言葉そのものであり、神は自然を超えていて、科学で発見されることはないのです。(ヨブ34:29)
ですから、神が証明ではなく、信仰によって人に見出されることを望まれる限り、世界人類は神認識で一致することなく、今後も様々な宗教や人生への見方が並立し続けることでしょう。そこには幾らかまともな神認識が有るばかりで、本来、人は他の人の信念を裁けません。

しかし、神との絆が回復されるに至れば、すべての人に生きる理由は明白にされる必要があります。この点での聖書の記述によれば、創造の神は人に永遠の命をもたらすことを意図されており、たとえ生きる場がエデンの園のように優れていてさえ、人が生きる理由を見いだせず会得もせずに永遠の命など到底生きらるわけもなく、どこまでも続く時間の重みに人は耐えられないに違いないのです。根本的な生きる目的が無いからです。

しかし、今を生きるにも、人は自分の価値を感じつつ生きるべきであり、それが短い生涯であるとはいえ、自分が存在することになったことについて、創造者からの存在意義を自分が確かに持っていることを意識するのは、大きな生きる助けになるでしょう。『神の象り』が人に価値を与えるからです。(ヤコブ3:9)

ですから、多様な宗教もつまるところは人間の価値の創成というところで広く共通しており、「死」という厳然たる難題に対して、方法は違えども共に立ち向かっている姿勢を見せています。つまり、人は皆「死」と向き合い、それをどうするべきかの答えを、意識するとしないとに関わらず求め続けてきたのです。
人にとって避けられない「死」に対抗できるものは、「人の価値」であり、「生きる目的」でありましょう。この点に於いて、人類は同じ問題、自己の価値を得るためにそれぞれの方法で対処しようとしてきており、死後の解説もその一つの表れです。たとえそれぞれ宗教や考えが的外れではあっても、やはり人類は同じ環境に置かれた兄弟のようなものであると言えるでしょう。ですから宗教や思想の争いなどは、視野が狭いばかりか害であり、また実につまらないもので、関わる必要などありません。

一方で聖書には『死は最後の敵として滅ぼされる』という言葉があり、『死』というものさえ創造の神の制御下にあることを教えています。(コリント第一15:26)
では、創造者は、いつまで人と隔てられた状態を許すのでしょうか。また、そうする事情があるのでしょうか。

このあたりの事情を説くことに於いて、聖書は重要な根拠を知らせるものとなっています。その基礎となるのは「人間の道徳性の問題」であり、その始りはエデンの園での最初の人間からのものであったというのです。

つまり、神との隔たりが生じた理由、それはまさに『神は自らの象りに人を創られた』という人間らしい性質から生じているのであり、人に重い価値があるからこそ、一つの問題が解決していないことを聖書は告げているのです。
人の人格的価値のゆえに、創造された人間は創造者と隔てられ、現状では根無し草のような存在になっています。神との隔たりの中で人の価値は危機にあり、生きる目的も不明となってしまいました。多様な宗教や信条も、この状況下で人間の考え出した仮の解答であり、一時しのぎのようなものでしょう。それだけこの世が生き辛いということです。

この現状では「なぜ生きるのか」の問いに正解がないとしても仕方がありませんが、本当の意味で神との意志の疎通が図られるとき、それは人類の創造されたままの貴い価値を持つ『栄光ある姿』が明らかにされるときとなるでしょう。(ローマ8:19-21)




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