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第2バチカン公会議 開幕から60年…

第2バチカン公会議が始まってから、10月11日で60年が経つんですねぇ。「公会議の精神」というフレーズは教会の中でいつも枕詞になりますが、それをどこまでマジで実現させる気か、という本気度が問われている60年後な気がします。
↑聖ペトロ大聖堂、Volker GlätschによるPixabayからの画像

(「教皇フランシスコはいかに『公会議チーム』を再興していくか」タブレット2022年10月11日)
この記事、60年間の教会の歩みをサッカーチームにたとえて、公会議時点ではラーナーやスキレベ―クスのようなスターがいたものが、ラッツィンガーやデ・リュバックが別のチームに移り、2007年にラテンミサが再興するに至っては、「公会議チームは2部に降格した」と言っています。しかし、フランシスコが登場し、「アジアや南米からすばらしい新戦力を集め、自信を取り戻してきた」とのこと。確かにそんな流れですかね。
フランシスコのいいところは、公会議をどう解釈すべきかといった抽象的議論には組みせず、公会議の言ったことを実践していくことに邁進していること、と評します。「ローマは今、公会議の『精神』について語り合っているが、フランシスコは注意深く教会の内部改革を進め、『現代世界憲章』の冒頭部分(現代人の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人のそれらは、キリストの弟子の喜びと希望、苦悩と不安でもある)を実現しようとしている」とのこと。
具体的には、イスラム指導者各師との交流を重ね諸宗教対話を推進し、典礼については刷新されたミサに引き戻し、シノドスの歩みは公会議の「神の民」教会論の実現、といった具合です。「貧しい人のための貧しい教会」というフランシスコのビジョンは、ラッツィンガーが1966年に書いた「公会議は教会の始まりの単純さ(=神は大工の息子を選び、最初の働き手として漁師らを選んだという)の精神への回帰」という解説と呼応している、と述べています。

(「なぜ新たな典礼運動がひどく必要とされているのか」タブレット2022年10月6日)
こちらは、公会議の典礼刷新に関連して、ちょっと新たな視点です。
最近、典礼について論じる記事は、公会議前ミサ(特別ミサ)と公会議後ミサ(通常ミサ)の是非についてのものが多いように思いますが、「そんなちまちました議論はうっとうしい」が、現在の典礼では、キリストによる救いの神秘、ご聖体の神秘が十分表現されていない、味わえない(それは典礼各部分の象徴世界に関わる問題)、という感じの批判を言っています。だから、フランシスコの典礼に関する最近の2つの文書(Desiderio Desideravi、Traditionis Custodes)の内容について、公会議文書の『典礼憲章』などを引用して多くの注文をつけています。
細かい議論がけっこう難しく、その妥当性がちょっと判断つかないのですが、公会議前のラテン語ミサに戻せ、というフランシスコ反対の守旧派とは違って、今のミサについての刷新運動を、と訴える人がいることは知っておくべきかもしれません。

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