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特攻隊記念館に導かれ...

私の婆ちゃんは、大恋愛して結婚した人がいる。婆ちゃんの時代には珍しかったらしい。
でも次の日に赤札が来てそのまま戦争に行った。
シベリアだったらしい。
婆ちゃんはその人を20年待ち続けた。
村の人達がもう帰って来ないと言っても、20年待ち続けた。
婆ちゃんは優しいし何でも教えてくれるけど
戦争の話だけはしない‼️
きっとあの人を思い出すからだろう。
だから私の母は44歳の時の子供だった。
爺ちゃんも戦争経験者で生き残って帰ってきた人だ。
生きて帰ってきても喜ばれない悲しい現実。
戦争の話はよく聞いたし、仕事柄介護士なので
戦争の話は利用者からよく聞いた。
実際、銃で撃たれた傷の人や、凍傷で手足の指がない人、義眼の人など。
だから子供の頃から終戦記念日は黙祷してきたし
それは今でも子供達に話をして、黙祷するようにそして感謝をするように伝えてきた。
でも「特攻隊」の話は私は耐えられなかった
その話を聞いた時、弟が同じ歳でもし弟がと考えると耐えられなくて逃げてきた。
そして息子が産まれて余計にその話は遠ざけてきた。

でもご縁があってGWに行くことになった。
息子が特攻隊の話を聞いて、自分なりに調べてその気持ちを理解してよく話してたからだ。
零戦の飛行機や、写真を頂いた事がある。
息子なりに特攻隊の子供達が親御さんに宛てた遺書を理解しており、戦争はダメだ。戦争は悲しい事だと小学生低学年でも理解していて、軽度知的障害という診断があっても理解できるのは凄いと主治医に言われた事がある。
それもあってか、知人に連れて行ってもらい親子で
行った。
見た事もない息子の真剣な顔。漢字が読めない所も多いので2人で一つ一つその時の状況や写真、使用した物、衣類、食べ物、1日のスケジュール、訓練を見て回った。
私は身体が重くなり、余りの地獄の様な様子に息が出来なくなり苦しくなった。
息子も身体が重い、足が動かないと。
お互い入り込んでしまったんだろう。
息子の背中を叩きながら最後まで見て回った。

私も学ぶ事があり、息子もそれなりに学ぶ事があった。
記念館から出てきて、息子が言った。俺は勉強も出来ないし頭も悪い。支援級だけどそれでも特攻隊の子供の人よりは幸せだ。あの人達の分、これから勉強も頑張って野球が楽しみだったって書いてあったから、代わりに俺野球も頑張る。
ここに来て俺は頑張らないといけないと思ったと。
そんな風に想える息子に私は泣きそうになった。

私も私でそう思った。
戦争の話は語り続けないとならない。
特攻隊の子供達の気持ちを考えると、今の子供達はあまりにも恵まれてる。
その時に私が同じ母親だったらと思うと胸が張り裂ける。
親の気持ち。子供の気持ちを考えると
もう戦争は絶対あってはならないと。
今でも自分の周りで小さい戦争は起きてる。
人が人を憎しみあったり恨んだり妬んだり。
そこから考えを改めないとと思った。
婆ちゃんの気持ちを考えると、私も母も生まれて来て良かったのかな?と複雑になる。
でも婆ちゃんが死ぬ前に娘と孫3人いた事が1番の幸せだったと思い出し、婆ちゃんに感謝したいと思った。
このGWは私にとっても息子にとっても学びになった
何時までも特攻隊の子供達がいた事を忘れずに
前を向いて生きようと思う。
こんな現実があった事を語り続けて行こうと。
今平和に暮らせる事に感謝しなければと再度息子と話た日だった。


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