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ジェーン式『ジュテーム』

Mixi日記 2005年8月24日より一部編集して転載。」

7月(2005年)にル・モンド紙で20回ほどのシリーズで60年代、70年代の夏のヒット曲を年ごとに1曲づつ、裏話などもふくめて紹介する企画があった。その中で69年の曲として選ばれているのが、かの名高い、セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの「ジュテーム...モワ・ノン・プリュ Je t'aime ... moi non plus」。その中でジェーンでなくブリジット・バルドーとのヴァージョンについても触れられている。67年に録音されていながら、結局、結婚したばかりでスキャンダルを恐れたバルドーの頼みでお蔵入りになっていたのが、86年に解禁発売されたもの。

そして両者を比べながら….

● 2つのヴァージョンをスペクトログラムで比べるとどうなるか気になった。特に2人の女性の声の違いを。

そして歌中でセリフとして発せられる "Je t'aime" のところで、ちょっと変ったことに気がついた。



写真は、"je t'aime"のジェーン(上)による発声とBB(下)による発声のスペクトグラムを比べたものだ。

スペクトログラムに示したのは音のサンプル中、3度繰り返される je t'aime のうち最初のもの。

両方とも "je" と言ってからほんの短い間があり、t'ai /tE/ が引き伸ばされて、 "me" /m/ と子音で閉じる。スペクトグラムでもそれが分かる。ただし、本来は声がない部分でも裏に流れる楽器の音で中央より下の付近に縞ができている。これは声だけ考えるときは無視していいい。

● さて、ジェーンの "je t'aime"だが、"je"の最後というか、"je" と "t'ai"の間に正体不明の鋭いピークがある。 よく見るとBBのほうでも"je"の最後のほうにそんな気配が見えないこともないが、ジェーンのほうでは"je"の部分とはっきりと分離した短く鋭いピークになっている。

この楽曲の2つのヴァージョンの構成はいっしょで、2人とも全体で合計12回(3回×4個所)、"je t'aime" を繰り返す。上の写真は、4回目のところだが、12回ぶんほぼ全部にジェーンの "je t'aime" では、"je" と "t'ai"の間に独立した謎の音がある。これはバルドーにはない。この謎の音の正体が気になった。

その部分だけ取り出して聞いてみると、"ピシッ" というような鋭いむち打つような音だ。楽器の音ではない。ますます謎だ。われらがジェーンは、je t'aime とささやくときに、どんな芸当でこんな雑音を出しているのか。この謎の音をむりやり切り除いてこのフレーズを聴いて見た。あいかわらずふつうにちゃんと "je t'aime" と聞こえる。ただ何となく物足りないような気にはなる。それでこのスパイスの出所がますます気にかかる。

● たぶん、これは、ジェーンのフランス語の英語なまりから来ているのだろうなと想像できた。

/t/ の音をつくるとき、フランス語ではだいたい舌の位置は一定で、上の歯のつけ根あたりに舌先を、軽くしかししっかりと(?)つけ、息を発するときにパチンとはじけさせるようにする。英語のばあいは、もうちょっと複雑で、米語と英語でもかなり違うが、もうちょっと後ろ(歯茎より)だったり、はじけるときに息がもれたりする。また私の印象ではシラブルの中で/t/の現われる位置によって、フランス語のばあいよりも、舌の位置の違いが大きい。

また全体的に、フランス語のばあい、口の形や舌の位置はその音と次の音の間の短い時間に、一瞬の内に動き、一つ一つの音はすでにスタンバイされた一定の構えで発せられ、一つのシラブルは一定の音色で発音される。音と音の間をわたっていく経過はほとんど聞かれない、英語の場合は逆に音と音の間の音色の変化がたっぷり聞かれる。

そういうことを前提に、何度もあちこち舌を動かしながら、こうだろうと思ったのは、ジェーンの "je t'aime" では、jeを止めるために t の構えを準備しながら舌の位置が微妙に動いていく間に、息がもれる音がどこかで出るのだろうということだった。そんなことを考えながら、用事の帰りに道を歩きながら、口に中でもごもごしているうちに、なんとなくこうだろうというところまできた。口の中で何度か繰り返し、安定したので、一件落着。

● まあ一件落着と思って、ほっとしたときに、昔やはり学校でならったことを思い出した--「アナリシス・バイ・シンセシス」。分析の結果を確かめたり、分析をより正確なものに近づけいくために、仮説としている分析結果をつかって構築してみて、構築された結果と、大もとの分析対象を比較してみるべし、という教えである。

ということは今自分が、これだと思っている "je t'aime" の発音のスペクトログラムを調べてみなければならぬ。ということでマイクを接続し、今先納得したジェーン風で "je t'aime" と何回か言ってみた。

が-ん、全然違う。問題の謎のパルス音のかけらもない。

そしてここからほんとうの難儀が始まった...

舌を歯茎のほうにやったり、前歯のさっきっちょまで出してみたり、一瞬のうちに、あるいはゆっくりと前に後ろに動かしながら、"je t'aime"、"je t'aime"とマイクに向かって繰り返す。リアルタイムで表示されるスペクトログラムを見たり、細かく見かえしたり、お手本を何度も聴き直したりしながら。

これ、人が見たらかなりアブナイ。大の男が一人で部屋にこもって、何やらあやしげなグラフを前に、囁き声でひたすらジュテーム、ジュテーム、ジュテーム、ジュテーム ...。微妙に口調を変えながら、いらだたしげに首を横にふったりして。

● 別にできなくても困ることはないし、できたからといって何の得もないが、同じ人間の口や歯や舌をつかっているのに、できないどころか原因も不明の発音があるということに対する悔しさがめざめると、もう止められないのがいつもの癖。ここで止めては男がすたると、大の男がジェーンの真似をしてジュテーム、ジュテーム...

あまりのできなさに、途中から、舌のせいではないかもと思って、あらゆる方法をためす。小一時間やったあたりで、ひょんな偶然から思いもかけないほうできっかけがつかめた。je の後にかすかな分離したピーク。きっかけを逃さぬように、少しづつ安定させていき、トライアル&エラーで近づけていく。できました。



こちらの写真で、上段のスペクトログラムは、普通のフランス語の発音で "je t'aime" と言ったときのもの。声が低めなことを別にすれば、BBの "je t'aime" とほぼ同じ。下段のが1時間15分の格闘のあと、ジェーン風にたどりついたもの。問題のパルス音がスペクトログラムでちゃんと認められる( ちょっと自慢。ただし音は、公序良俗のために不公表)。

さてどうやるかの種明かし。

● その前に "je t'aime" の je - ジュ について、初歩的な確認。知っている方は、この段落、飛ばしてくださってけっこうです。

Je t'aime の je や Bonjour にでてきて、日本人の耳に「ジュ」ときこえる音の子音の部分、これは、日本語で普通「ジャ-ジ-ジュ-ジェ-ジョ」の行で発音される子音と同じではない。フランス語のスペルで j で書かれる時の子音は「摩擦音」で、日本語の「ジュ」は「破擦音」である。 前者前者、たとえば Bonjour を例にあげて説明すれば、jou の部分でいうと、いっとう最初から最後まで、舌は口の上顎のどの部分にも触れることはない。もちあげられた舌と上顎のつくる狭い部分を空気が通過するときに摩擦する音が連続して「ジュジュジュジュ」と聞こえる。 たと後者、たとえば「ジュウ(十)」というときの ジュ を見れば、最初舌は上顎にくっついていて、息ともにこれが離れる、舌と上顎が離れるときの破裂と、少し離れているときの摩擦の音が「ジュ」になる。摩擦のぐあいが舌と上顎が離れる短い間に変化するのもこの音の特長だ。njだから、Bonjour の j の音は息が続けば1分でも発し続けられるが、「ジュウ(十)」の「ジ」はほんの短い間かぎりの音で引き伸ばせない。無理に延ばしても後は「ウ」の音しか残らない。 は、この j のしくみは、英語では例えば pleasure を例に高校でも習うがそれほどうるさくは言われないと思う。一方、フランス語の発音では、フランス語らしさを与える重要なキーポイントである。逆にいうと、フランス語の発音を覚えていくとき、この j を獲得するだけで、段違いに「フランス語っぽく」聞こえるようになる。 違うところで、日本語「ジ」と違うこの j が日本人にとって難しいかというとそんなことはなく、意識さえすれば30秒で確実に覚えられる。シ の子音の部分(sh)をひきのばしながら、つまりだまってなさいの「シー」をしながら、それに声をつけてやればいい。je t'aime の je なら「シュー」と風音をさせながら、声をつける。そもそもこうやって発音される j の音と、日本語の「ジ」の音をくられべれば、後者の「ジ」は、「シ」でなく「チ」に声がついたもので、言ってみれば実は「ヂ」だということがわかる。この「チ」と「シ」の違いさえ意識すれば、「ヂ」とは違うフランス語の j は確実に発音できる。 たように、j は破摩音でなく、摩擦音であり、実際ジェーンの "je t'aime" はほとんどささやきのため、耳にはかぎなく「シュテーム」に近く聞こえる。

(上記の説明を受けた続き)ということで、とくにこのばあい、日本語の「ジュテーム」よりも、近い「シュテーム」での表記で説明を続けてみよう。

まず基本は、「シュ(stop)テーm」だ。
少し延ばした「シュ」を一度ピタリと止める。そのとき息も止める。そしてしばらく待ってから、おもむろに「テーm」とやる。

「シュ」の止めかただが、まず、舌の先を上の前歯の根元、つまり t の位置にもっていくことで空気の流れを止める。そのとき、息もとめると、自然の喉の奥(声門)が閉じる。「シュ」がぴたりと止まり、「シュッ・テーm」のような感じになる。

ここまでは標準的なフランス語を話す人がやればほぼ万人共通。BBの発音もたぶん同じ。これでは謎のパルス音はでない。さて、このパルス音のためにはこれからが肝心。

「シュッ」をやるさい、つまり、「シュ」の音を t の口の構えに移行しながら、声門を閉じて息を止めるとき、少しお腹に力をいれ腹筋をつかいながら素早くやる。すると「シュ」と言っている間にまだ口の奥ののこっていた空気が、勢いよく放出される。このとき、tの位置で舌が閉じる直前のかすかな狭めから、できるだけ鋭く一瞬のうちに呼気を放出するようにする。そして次の瞬間に、舌と上顎の閉鎖、声門の閉鎖でその放出を急激にせきとめる。

このときの一瞬の呼気の放出が謎のパルス音の正体だ。

細かいことをいうと、「シュ」の音を徐々に弱めていき、消えかかったあたりでこれをやると、「シュ」の部分ときれいに分かれたパルス部分ができる。

基本的原理はこれですべて。

● 一言でまとめると、最初の予想と違って、舌先を使うのでなく(もちろん舌先も調整にあずかるが)、お腹を使うというのがポイントであった。これに気づかないかぎり、どんなに舌先をこねくりまわしても、この je t'aime の音にならなかったのは当たり前。何か意味深な結論です。

● 毒をくらわば皿までで、「テーm」の部分のジェーンの特長も見てみる。

スペクトログラムを見ると、上の縁が徐々に右下がりになっている、つまりいちばん高い周波数成分が時間とともに徐々に下りてくる。これは声で出ている音の高さによるものでなく、ささやきに含まれる鋭い雑音成分の変化である。上で英語の t とフランス語の t の変化や音と音の間のわたりの違いを説明したが、それがここで効いてくる。

まず、 t の音を出すとき、つまり舌先と歯茎の閉鎖を解くときに、舌先が歯茎からわずかに離れた瞬間に、鋭く空気をもらす。これは通常のフランス語ではしない発音で、英語訛りの特長だ。その時にいちばん高い雑音成分が出る。そしてその音の弱まりとともに一番高い成分がなくなる。

そのあと、「エ」 の口がまえで息を漏らしながら、舌を少しづつ下げ、口の奥の容積を広めにする(声のピッチを頭の中で下げようとするとそうなる)。上のサンプルでは出てこないが、後のほうの je t'aime では、このあと逆に舌の奥が上がり、iに近い音色に転じる典型的な英語訛りの二重母音風にもなっている。それも含めると、ジェーンは、極端にいうと「t+h+eeE-im」というような感じで発音する。BBのほうはこの変化がないので「テー」の最初から最後まで常に一定である。

先ほどの「シュッ・」のやりかたの続きで、息遣いの面からも説明しよう。「シュッ」の最後の「ッ」で勢いよく空気を出し切ったあと、その後、息をとめ呼吸困難になっていたのに、さらに、残っているわずかな空気を、無理して全身からできるだけ強くしぼり出すような感じをつかむ。やはりお腹の筋肉を使う。息がつきるにしたがって、仮想的なピッチもしだいに下がる。息がつきたところで「m」を添える。BB の場合、この息がつきるプロセスがないので、「テー」の後に「m」がダイレクトにつながる。

● 上の説明は、かなりスロモーションにしかもかなり誇張しているが、以上の運動をを飲み込んだ上で、音楽の要請するスピードで、最初はさらりと、そして後にいくに従って、だんだんオーヴァーアクションぎみにやる。一回の je t'aime だけでもやってみるとわかるが、これは音の大きさに関係なく、かなり全身運動で体力を使う。話が怪しくなってくるが、やっているうちにだんだん変な気分になっていく(笑)。

ジェーン版で、英語の話者のもつ鋭い雑音成分が普通のフレーズでも自然にあちらこちらにちりばめられていることと、全身運動する肉体の性的連想が魅力になっているのが、この短いフレーズからでもわかる。一方、BBの版には、クールに演技する大人の魅力がある。

対するゲンズブールのほうの歌も、相手とのインターアクションにより、ジェーンのほうのときがオーバーアクションになっている。

● ちょっとした疑問から、のりかかった船でやってしまいながら、女性パートの je t'aime の練習を男がやるなんてわれながら気色悪いと思ったが、そこで、ある光景をはたと想像した。

ゲンズブールはジェーンにフランス語の発音など細かく教えていたという。この歌を1オクターブ上で歌うようにジェーンに指示たのも彼だ。完璧主義者のこの男が、発声も教えなかったわけはない。

ゲ「ジュッ・テ~ム」 J「ジュテイム」 ゲ 「ノンノン。ジュッ・テ~~ム。もっと全身をつかって!」 J「ジュッ・テイム」 ...1時間後 ゲ「テ~~ム!もっと絞り出すように。お腹から。」 J「テhエェム」 ゲ「いいぞジェーン。もうちょっと。こんなふうに ジュッ・テ~~ム」 ...2時間後 J「ジュッ・テ~イム」 ゲ「うーん。発声はだいたいOK。英語なまりもこれで行くか。」

練習時の録音が残っていれば、ゲンズブールのわざとマッチョな「モワ・ノン・プリュ」だけでなく、フェミニンな「ジュッ・テ~ム」の声音も聴けたに違いないと絶対に確信する。

●「ジェーン式ジュテーム 」、よほど暇があある人は(いないと思うけど)、まあ試してみてださい。女性は飛び道具が一つ増えて、ご利益があるかもしれなです。男性のばあい...実利はないが、好奇心が満たせるのと、新しい筋肉の使いかたでちょっと世界観が変るくらいの効果はあるかも。まあ、男としては実は、ゲンズブール式「モワ・ノン・プリュ」を練習したほうがいいのだけれど、これはまた別の課題として[といいながら2005年からずっとまだ何も手つかず]。

● そして、もう一つの後日談は、この文章を書いたときにmixi で、ウィスパーを得意とする歌手の方からコメントで、

種明かしすると、確かにジェーン式ウィスパーは
お腹使います。お腹を使うことによって、声に微妙な
艶とゆらぎが出てきますね。

…なんだ、実演家に質問するのがてっとり早いじゃないと、思った次第。

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