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どうして死にたくなるのか

実際に自殺するかどうか、という話とは別に、「死にたくなる」という話があると思う。

当然ぼくは自殺はせず生きているけど、死にたくなることはよくある。

ここで話したい「死にたくなる」は、精神病とか、大きなストレスに伴う突発的なパニックとは別に、日常の中にある感覚の話。


なぜ死にたくなるのか。

すごく単純に言えば、それは喜びと苦しみのバランスの問題だと思う。

生きる喜び > 生きる苦しみ = 生きたい
生きる喜び < 生きる苦しみ = 死にたい

「こんな人生、生きるに値しない」と思うから死にたくなる。


生きていると、いろんな苦しみがある。

これは本当に不思議なんだけれど、人生は苦しみにまみれている。ぼくは、まともにものを考えるようになってから、1週間でさえ苦しみフリーで過ごせた試しがない。きっと大体の人がそうだろう。

それでも良いことがたくさんあれば、まあ生きるのも悪くないかなって思える。苦しみが大きくても喜びが大きければ、生きることはそれに値する。

でも、大して良いこともないのに嫌なことばかりがあったりすると、生きてるだけで丸損だな、という感覚が生じてきて、さっさと死にたい、と思う。

この「丸損」の感覚が、死にたさの正体なのだと思う。


この死にたさは、一見、合理的である。引き算の結果なのだから。

しかし、そこにはひとつ前提条件がある。それは、「この喜びと苦しみのバランスが、今後も一生続くだろう」という考えだ。

「死にたい」というのは、「これからもこんな人生がずっと続くなら、さっさと終わらせたい」という意味だと思う。


ただ、これからもこんな人生がずっと続くのかどうかは、実際生きてみないと分からない。

ここが、生きる上で合理的になりきれないところだ。

ひとりひとりの人生は一回限りのできごとでしかない。なので、まだ起きていないことは起きるまで知りようがないし、そのとき自分が何をどう感じるのかも分からない。


とはいえ、ぼくたちはなんとなく未来を予想する。

その時、予想の材料ににするのは、自分を投影できる他人(歴史上の人物、有名人、周りの大人たち)か、もしくは自分の過去だ。

その予想の中では、一回限りの自分の人生を、誰かの人生や自分の過去の反復だと捉えて考えている。

でも実際は、誰の人生であっても他人の人生の反復ではないし、自分の過去の反復でもない。

だから、本当にちゃんと判断しようと思えば、最後まで生きてみるしかない。

もしかしたら、明日からは人生楽しいかもしれない。


しかし、死にたくなる人は、そう思えないから死にたくなるわけだ。

この苦しみから逃れようがない=この苦しみが反復され続ける、と確信するから死にたくなる。

苦しみから逃げればいいじゃん、と簡単に言う人がいる。

本気で逃げようと思えば、場所からは逃げられる。周囲の人間からも逃げられるだろう。なりふり構わなければ働くことからも逃げられるのかもしれない。

ただ、自分からは逃げられない。

自分自身が苦しみの元凶だった場合、その苦しみから逃げる道は死しかない。

だから、死にたくなる。もう今日死のう、と思う。


これも一見、合理的だ。でもやはり、前提条件がある。

それは、「自分が変化しない」という条件だ。

自分からは確かに逃げられない。でも、苦しみを生み出す自分の特性が変化していく、という形で解消されることはあり得る。

どういう風に変化するのかは分からない。

だから、変化した後の自分が何をどう感じるのかも分からない。

だから、ずっと苦しいのかどうかも分からない。


でもやっぱり人間は、「今の自分」を「本当の自分」だと思ってしまう。

そして、「本当の自分」は、本当なのだから当然ずっと続くものだと思ってしまう。

だから、「今」苦しいと、「ずっと」苦しいはずだと思ってしまう。


この「今=ずっと」の誘惑はなかなか強力だ。

分かっていても、そう考えてしまう。そして嫌なことがあると、「死にたい」と思ってしまうのだ。