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あした宇宙が消滅しても、誰も困らない

明日、宇宙が消滅するとしたら。

「困る」と思う人もいるだろう。もしくは「それはそれでいい」と思う人もいるだろう。

「世界がないと困る人」と「世界なんかなくてもいい人」がいる。


ちなみにぼくは「世界なんかなくてもいい人」だ。


思春期になると誰しも、「生きるとはなんなんだろう」「どうして自分は生きているんだろう」という疑問を持つものだと思う。

ぼくも中学1年生の頃、そんなことを考え始めた。

「生きること」を考えようとしても、あまりに掴みどころがないものだから、ぼくは逆に「死ぬこと」考えてみた。

「ぼくが死んだらどうなるだろう」

という質問をすることで、逆に生きることの意味を考えようとした。


それで考えてみた。

「ぼくが死んだら、家族が悲しむだろう」

と思った。自分で考えていて気恥ずかしい気分だったが、そういうありきたりな答えがでた。

ぼくの死は家族に悲しみを与えるだろうから、逆に、ぼくが生きていることは、家族に悲しい思いをさせないという形で意味がありそうだ、と思った。


しかし、そこでやめずに、さらに考えてみた。

「ぼくと、ぼくの死を悲しむはずの家族が、全員いっぺんに死んだらどうだろうか」

さっきの考えだと、ぼくの生きる意味は、ぼくの家族に依存していた。その家族ごとぼくが死んだらどうなるだろう。

「ぼくの家族と関係している人が悲しむだろう」

という答えがでた。

当然、ぼくの家族は、ぼくとだけ関わりがあるわけではない。ぼくが死んだら家族が悲しむように、ぼくの家族が死んだらその友人や知人が悲しむだろう。

そういう風にして、悲しみは外へ外へと繋がっていく。

なるほど、こうやって社会というのがあるのか、と素朴に思った。皆が誰かを悲しませないために生きているのだと思えば、それはそれで、ひとつの答えだった。


しかしこの疑問は、そこで止むわけもなく、外へ外へと広がって、

「人類が皆いっぺんに死んだら、どうだろう」

という疑問に突き当たった。

「動物や植物にとってはありがたい話、かな・・・」


「じゃあ、地球がなくなったら?」

いや、そもそも

「宇宙がなくなったって、どうにもならないんじゃないか」

と、ぼくは思った。

宇宙がなくなることを見ている目が、どこにもないのだから。


宇宙がなくなったってどうにもならない。それは宇宙があることに意味がないということだ。

宇宙があることに意味がないのだとしたら、宇宙の中で生きているぼくに、意味があるはずがないし、ぼくが生きることに意味があるはずがない。

これは絶対的事実だということが、中学生のぼくにも直観的に分かっていた。こういう結論に達したのは、知識や思考力の問題ではない。宇宙に意味づけすることは原理的にできない、とぼくは理解していた。

そんなこと考えながらも、中学生のぼくの日常はずっと続いてた。そして、それから十数年経った今も、日常が続いている。

ずっと続く日常の中で、この結論もずっと変わらない。

宇宙=世界が「ある」ことに意味はない。だから当然、ぼくが「いる」ことにも意味はない。意味は世界の内側にある。だから、世界がなくなるなら、意味も一緒になくなる。

宇宙が消滅しても誰も困るはずがない。困ってしまう人もいっぺんに消滅するのだから。