見出し画像

怒り記録2

バイトの帰り、ぼくは駅のホームで列に並んで電車を待っていた。ぼくはドアに対して右側の列の2番目だった。

電車がホームに滑りこんでくる。窓を通して車内を見るとチラホラ空席もある感じ。「お、空いてる!」と思って少し嬉しかった。電車が停車しドアが開く。その途端、ドアの両側に並んでいる人々を尻目に、1人の高齢女性が降りる人を待つこともなく電車に乗り込み、空いていた席に座った。

おいおい...と思いつつ嫌悪感を覚えた。

---

どうしてマナーが悪い人を見ると嫌な気持ちになるんだろう。

ちなみに、この高齢女性(「ばあさん」と呼ぼう)が割り込んだからといって、それで席が埋まったわけではなかった。さらに、ぼくはその電車では席が空いていても座らない(数駅しか乗らないので)。ぼくは車内がギュウギュウじゃなければ座れようが座れまいが、わりとどっちでもいい。すいていれば嬉しいけど、座れなくても悲しくはない。

そういうぼくの行動様式からすると、このばあさんの割り込みはぼくには全くどうでもいいことだ。ばあさんが先に乗ろうが後から乗ろうが、車内の混雑率は同じなのだから。

だから、この嫌な気持ちは、実利的なものではない。マナーを(つまり、ルールを)守らない人がいるのが気に食わない、というふわふわした正義感から来たものだと思う。


でもそもそも「マナーを守るべき」なのはなんでだろう? それは、マナーを守ることに実利があるからなんじゃないかっていう気もする。

誰もがマナーを守らなければ、普通に実害が出てくると思う。

例えば誰も列に並ばなければ、電車の乗り降りは今よりずっと面倒になると思うし、それで怪我をする人も多くなりそうだ。

ポイ捨てがダメなのも、実害として街にゴミがあふれたり、それを掃除する費用がかかってしまったりするから。もちろん環境にも悪いし。

そういうことで、「マナー」とは精神論ではなく、結構実利的なものだと思う。だからマナー違反に腹が立つとすれば、それは本来は実害に対する怒りになるべきだと思う。


ばあさんの割り込みによってぼくが受けた実害はない。

そう考えると、ぼくがこのばあさんのマナー違反に苛立つのはおかしな気がする。

なんというかここには「マナー」という概念が、現実を追い越して信仰になっているような気配を感じる。

現実的な問題を解決するために作られた「マナー」は、始めのうちは生活を快適にする手段だった。それがいつの間にか絶対的な何かになり、それを守ること自体が目的化している。

生活を快適にするための手段だったものが、いつの間にか生活を支配している。


自分がルールを破る時について考えてみる。

ぼくは、よく赤信号を無視して渡っている。

見通しのいい通りで、明らかに車が来ない時、ぼくは絶対安全だと判断すれば信号を無視する。なぜなら何も実害がないし、待つことになんの実利も、現実的な正当性もないから。

そして、「ルールだから守る」という姿勢で頑なに信号を守る人に対して、どこか違和感を感じている。(もちろん悪いとは思わないけど)

そんなぼくが、ばあさんの割り込みに対して怒りを覚えるのは、ダブルスタンダードだと言わざるを得ない。基本的に、あのばあさんの割り込みには実害と言えるものはなかった。

ここには予想可能かどうかの差はある。

赤信号を無視して道を渡る場合、「そこで害を被る人は絶対にいない」と予想できる。でも割り込みで電車に乗る場合、結果的にその割り込みのせいで座れなくなる人もいるかもしれない。結果が予想ができない状態で割り込むのは、赤信号を渡るより身勝手かもしれない。

しかし、話はそんなに複雑ではない。

ぼくが嫌な気分になったのは、割り込みによる結果が分かった後ではなく、ばあさんが割り込みをしたその瞬間だった。

だからぼくは、マナーの意味とか、その行為が周囲にどういう影響を与える(た)か、とかそういう思考を全く挟まずに、とにかくマナーを破った行為自体に嫌悪感を覚えたのだ。

これは結構ヤバいと思う。

判断の基準が、現実の事情から離れて何か抽象的な正義感に支配されている。そして、その際には自分の普段の行いは1ミリも頭をかすめず、ただ相手に憤っている。

その憤りに正当性を与えることは簡単だ。「マナー違反は悪いに決まっている!」。でもこう言えるのは、マナーが絶対化されていることに全く無頓着だからで、この無頓着にも悪がある。

マナー違反の悪と、絶対的なものに対する思考停止の悪。どっちがより悪いかは微妙な問題だ。

「マナーが絶対にいつ何時でも守られるべき」という社会って、普通の人間にとってかなり生きにくいんじゃないかと思う。少なくともぼくはそう感じる。

ぼくは、多少マナーが破られる時がある社会の方が健全だと思うし、そういう社会に生きたいと思う。それが許される社会であってほしいと思う。

ぼくはそう思っているから、「マナー違反は悪いに決まっている!」なんて言えない。そうであれば、あのばあさんの割り込みを見た瞬間に嫌悪感を覚えた自分を正当化する手立てはもうない。


さらに、当たり前の話として、自分と他人は生きることに対するいろいろな条件が違うんだということを想像しないといけない。

ぼくは20代である。ばあさんは多分70代前後。

この両者にとって、「電車で座れるかどうか」という問題の大きさにはかなりの差がある。

ぼくが「座れようが座れまいがどっちでもいい」と思えるのは、ぼくにとって車内で数十分立ち続けることがそれほど苦ではないからだ。これはぼくが単に若いからであって、人間性の問題でもなんでもない。

きっと、あのばあさんにとっては、車内で立つことはもっとずっと苦しいことだろう。これも別にばあさんの人間性の問題ではなくて、単に年老いたというだけのことだ。

ばあさんの「割り込んででも座りたい」という気持ちを、若者のぼくが「マナーの悪いやつだ」と一刀両断するのは、かなり酷だ。この想像力のなさはマナー違反より悪だと思う。


その上でやはり、ばあさんは割り込む必要はないと思う。

席が埋まっていたとしても、「座りたいので席を譲ってください」と誰かにお願いすればいいわけだ。多分、大体の人は譲ってくれると思う。

ばあさんにとって、それはプライドが許さないのか、コミュニケーション下手なのかは分からない。ばあさんは無言で割り込むことを選んでしまったのだ。

しかし、たしかに全く知らない人に、自分が楽をするためのお願いをするのってなかなか大変そうだっていうのも分かる。

でも割り込むよりは、ずっといいと思うんだけど。

会話ってすごくコストが高いんだな、と考えさせられる。無言で割り込むことの方が、面と向かってお願いするよりずっと楽チンなのだろう。

ぼくも同じ状況になった時、ちゃんと他人にお願いをすることができるかどうか、自信がない。

しんどい時にもっと気楽に、他人にお願いできるようになるといい。

多分、ちゃんとお願いできれば、その様子を見る周りも嫌な気持ちにならず、ばあさんも正々堂々と座席を確保でき、譲ってあげた人もそれなりに良い気分になるんじゃないかと思う。

マナーが大事っていうか、会話が大事。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

くたくた の 前向きさ が 1 あがった。
6

くたくた

ポジティブな空気がなんとなく苦手。

雑記

その時々で思っていること。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。