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インスタ映えの為に食べ物を粗末にする人

(2017年頃のブログ記事より転載)

ツイッターを見ていると、マツコ・デラックスがテレビで、「インスタ映えの為に食べ物を粗末にしている人」を痛烈に批判したとかで盛り上がっていた。ブスという言葉までわざわざ使ったそうな。

マツコ氏のワードチョイスやら、それに後続するツイッター上の盛り上がりについてとか、そういうことは全部忘れて、ぼくがこの問題の本質だと思う部分だけを考えてみる。

それは「ブームの為に食べ物を粗末にする行為の是非」。

ブスかどうか、インスタグラムというプラットフォームかどうか、女か男か、そんなことはどうでもいい。

また、ぼく自身は作った食べ物を捨てられるシェフやパティシエでもないし、餓死しそうなほど貧しい人でもないから、そういう人の気持ちに憑依するつもりもない。

ぼくという人間にとって、この問題の本質は、「ブームの為に食べ物を粗末にする行為の是非」。

「ブーム」というのは微妙な言葉だ。だから、ある種の「文化」だと捉えてみよう。

長い目で見れば「文化」だって「長めに続いているブーム」でしかないのかもしれないから、そんなにおかしくはないと思う。ある集団がその時共有する価値観とそれに付随する行為みたいなもの、という感じ。

「食べ物を粗末にする」ことが忌み嫌われる理由はなんだろうか。

食べ物が資源だから。誰かにとっては生死を分ける存在ですらありえるから。また食べ物には人の労働や苦労が詰まっているから。食べ物には人の思いが詰まっているから。

そもそも、多くの人にとって、食べ物は単なる「物」以上の何かなんだと思う。(恐らく日本においては特に)

ぼく個人的には、食べ物を特別に崇めるこの価値観にも若干違和感がある。食べ物の価値も相対的なものだし、誰かにとっては生きる糧でも、誰かにとってはゴミでしかないこともある。

たしかダウンタウンの松本氏が、「十分な食事に恵まれない人もいるんだから食事を残すな」という言葉に対し、「そういう人でもお腹いっぱいになったら残すだろ」と返したという話を聞いたことがある。

もちろん、これはギャグだが、的を得た見方だと思う。

今、これだけ食べ物が溢れた日本において、食べ物の地位を高く置くのは、もはや欺瞞的な感じすらしている、とぼくはうっすら感じる。

データを見れば日本がびっくりするほど毎日食べ物を捨てていることが分かる。僕はコンビニバイトをしていた頃、毎日食品を大量廃棄していた経験があるので実感としても分かる。日本で生きていれば、そういう嫌なシステムの恩恵を否が応でも受けている。

そこに対しては無関心でありながら、「自分は食べ物を大事にしている」と素朴に考え、インスタグラマーだけ非難するのは、ちょっとどうなんだと思う。「世間は知らんけど、自分はちゃんとしてるもんね」というのは無責任ではないのか。

とはいえ、こういう違和感を頭では感じつつ、ぼく自身、日本的常識の渦中にいる人間なので、直感的・感情的に食べ物を特別重要視する感覚は分かる。

「そんな特別な存在である「食べ物」をブームごときの為に粗末にするなんて何事か」というのが、「インスタ映えの為に食べ物を粗末にする行為」に対して嫌悪感や違和感を抱く原因だと思うし、ぼくも直感的にはそういう感情を抱く。

これは言い換えれば、「文化の為に食べ物(資源)を粗末にしていいかどうか」という話になってくるんだと思う。

ちょっと話を変える。

「インスタ映え」とは何だろう。

自分ひとりで楽しむ為にインスタ映え写真を撮っている人はいない(というかそれは語義矛盾だろう)。これは周りに見せてなんぼのものなので、自己アピール。自己アピールの中でも視覚的かつ表面的(必ずしも悪い意味ではない)なものだ。

と考えると、これは一種の「ファッション」みたいなものである。

ファッションと言えば、基本は服だと思う。食べ物の機能がエネルギーの供給だとすれば、服の機能は着て肌を隠したり、暖を取れること。

日本で生きている人のうちで、服が擦り切れて着られなくなるまでその服を着続ける人はどれくらいだろうか。そんなに多くはないんじゃないだろうか。

多くの人は、気に入らなくなったとか、流行らなくなったとか、見映えが悪くなったとか言う理由で、まだ着られる服を捨て、新しい服を買うのではないだろうか。

見映えの為に、まだ資源として使えるものを捨ててしまうなんてことは、先進国に生きる多くの人はよくやっていることなのではないだろうか。

でも1着の服だって、多くの資源を使って作られ、多くの人の労働を経て、多くの人の気持ちの果てにぼくたちの手に届いているだ。少なくとも、食べ物と服が違うというのは、どちらに関わっている人に対しても失礼だろう。

でもぼくは、まだ着られる服を捨ててしまっている。見映えの為に服を買い、その「見映え」という役目が終われば、まだ着られるのに捨ててしまっている。

1回着ればいいんだろうか? 100回着れば許されるんだろうか? ちょっと色が落ちたらしょうがないのか? その線引は誰がするんだろうか。

というか、そんなこと、良いとか悪いとか、誰かが簡単に言えることなんだろうか。

文化というのは、いつも何かを粗末にしているんじゃないだろうか。

例えば、ぼくは映画を観るし、映画という文化にお金を払ってその存続に貢献しているが、映画1本撮るのに、どれだけの資源が使われ、どれだけのゴミが出ているんだろうと考えると末恐ろしく感じることがある。

また、映画の制作費をまるまるどこかに寄付したら、いくつかの貧しい村を助けられるくらいの額になるのではないか、と考えたりすることもある。

でも、ぼくは映画がなくなるのは嫌だし、映画制作をやめれば単純にその分なにかが良くなるほど、世界がシンプルだとも思わない。

ぼくは食べ物を粗末にすることや、服を捨てることや、娯楽にとんでもない量の資源を使うことを良いと思っているわけではない。それ自体は悪いことだと思うが、でも、そういうことが良いことを構成していたりもする。

良いことと悪いことがあるのではなくて、良い部分と悪い部分がある。

その上で、どの行為にどこまでの悪を許容するのかっていうのは、ぼくの目から見るとかなり難しい話で、「インスタ映えの為に食べ物を粗末にしてるのは完全に悪だ」と言い切れるほどの確信がぼくにはない。

そういうインスタグラマーは悪だと糾弾して、でも自分は気に入らない服は捨てちゃうし、映画も観ちゃう、という風にはできない。

ぼくは何かをする度に、凄く良いものに触れながら、同時にそれに含まれる悪も感じている。自分は絶対正しい事だけをしているとは思わないから、他人の価値観や行動様式を強く否定する気にはなれない。

何の生産性もない事を書くためにツイッターを開くのは、電力を粗末にする行為だからダメだ、なんてことも当然言えない。

前述した通り、「食べ物」というのは、多くの人にとって特別な熱がこもっているんだと思う。ぼくは、これにはあまり根拠がないと思っているが、でも少なくとも、日本では多数の同意を得やすい「熱」なのだろう。

だから、これが粗末にされると大多数が怒る。これが服や電力なら、多少粗末にされていたって、ほとんどの人はスルーするだろう。でもこの大事さは恣意的な感覚だ。

インスタグラムの問題は、ただ「皆が納得しやすい悪」が見えやすいだけなんじゃないか。

一方で、ぼくたちがただ文化的な生活をしているだけで日々生み出されている悪の総量はこんなものじゃないはずだ。ただ、それは巧妙な売り手の誤魔化しのせいか、単純に慣れのせいか、悪だと認識しづらくなっている。もしくは認識していても過小評価しているだけのように、ぼくには思える。

「写真だけ撮って食べ物を捨てる」という話を聞いた時に感じる嫌悪感や違和感は確かにある。

でも、これを叩くのは、単に見えやすくて、かつ叩いても社会的に許されそうなものを叩いているだけなんじゃないか、という感じがぼくはする。これを叩くなら、他の文化も全て端から叩いていかないと筋が通らないような気がする。

食べ物を粗末にする行為自体が悪だと言うのは簡単だし同意する。

だけど、ぼくたちが生活している文化全体で見た時に、このことをピックアップして特別非難するほど大きな悪なのかどうか、それは微妙な話だ。

「インスタ映えなんてどうでもいい」と思っているぼくがこれを叩くのは簡単だ。それは映画に興味のない人が「映画なんて資源の無駄だから作るな」っていうくらい簡単だろう。

誰かの楽しみや幸福を、自分の基準でダメだとか無駄だとか間違ってるとか、簡単に言っていいとは思わない。

だからぼくはその人たちを責められない。

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ポジティブな空気がなんとなく苦手。

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