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健全に自分を支えるということ

ある程度読んでくれる人が増えると意見が合わない人も出てくるのは世の常で、まったく建設的でない悪意を向けられることがたまにある。

Twitterを見ているとよくそれに対して怒っている人を見かけるのだけど、私は『誰かを見下したり批判することでしか自我を保てない精神の貧困性』について毎回考えさせられる。

先日こんなツイートをしたのだけど、批判というのはもっとも思考力を使わずにできる暇つぶしだ。

なぜなら物事には必ずいい面と悪い面があり、どんなにいい言動に対しても揚げ足をとることは可能だし、例外だって無限にある。

批判をするだけなら小学生にだってできるのだ。

私は批判自体は悪いことではないと思っていて、ツイートで書いた『浅はかな批判』が問題なのは、発言の本質を理解せずに脊髄反射的な無思考の言動の部分だと思っている。

人がもっともストレスを感じるのは『正しく伝わっていない』という状況なのであって、たとえ賞賛のコメントだとしてもピントがあまりにずれているとあまり嬉しさを感じられないのではないかと思う。

そして『正しく伝わる』ということは、書き手の力量だけに依存するものではない。それは常に書き手と読み手の共同作業なのであって、読み手の知的態度も同様に試されているのだ。

先日『論文は読めない方が悪いという前提で書かれている』という話を高橋祥子さんに聞いたのだけど、論文以外の記事や本だって、そこに書いてあることを意味のあるものにするには、読み手の努力が必要だ。

人生を好転させようと思ったらそれなりの努力が必要だし、浅い批判を繰り返したところで世の中は自分の思ったようには変わっていかないということは、言われなくても誰もが理解しているはずだ。

それでも無思考な批判がなくならないのは、そうすることでしか自分を支えられない人が世の中に溢れているからなのだろうと思う。

実際私もほんの少し前まではそうだったし、特に思春期から青年期にかけてはパワーを持て余している分、誰かより上に立っていると自分に言い聞かせることでしか自我を保てない時期というのはわりと多くの人にあるはずだ。

ただ、本来は大人になるにつれて自分という軸がしっかり固まれば不用意に人を傷つけないようにする想像力を持てるようになったり、彼我の境界線を持つことで多様な価値観を受け入れられるようになっていくものなのだけど、どこかで躓くとうまく自己受容ができないことがある。

そしてそれは多くの場合、本人の性格の問題だけではなくて、与えられた環境のせいでもある。

経済的な貧困は目に見えるので救いの手が差し伸べられやすいけれど、精神の貧困はその人のパーソナリティの問題として片付けられやすい。

本来は幼少期に自己肯定感を得て、誰かを貶めずとも自分は自分であるというだけで価値があるのだという感覚を養うべきはずが、大人になるまでそのチャンスを与えられずに育ってしまうと、その貧困のループから抜け出すのは容易ではない。

誰かの批判ばかりしている人を好きになるような人は稀なので人がどんどん離れていき、その孤独感からさらに攻撃性を強めてしまう、という負のループ。

これが極限までいってしまうと、少し前に話題になった『無敵の人』になってしまうのだろうと思う。

批判ばかりする人を叩く風潮はそれはそれで仕方ないと思いつつ、実はパーソナリティの問題ではなく環境に恵まれたなかったケースも多々あるので、社会的福祉として環境を整えて支えていく必要があるだろうし、今後こうした精神的貧困ももっと注目されていくべきなんじゃないだろうか、と個人的には思っている。

特に今後社会全体が豊かになり、あと数十年もしたらあらゆるものが自動化されてベーシックインカムだけで最低限の生活が保証されるようになったとき、『お金はある、でも居場所がない』という人がものすごく増えるだろう。

ひとつの問題を解決するということは、その問題によって隠されていた別の問題が表出してくるということセットであって、最低限の生活が保証された先にあるのは『存在価値の保証』なんじゃないだろうか。

そして今の日本は少しずつこの問題が表面化しつつあるフェーズなのだろうなと、毎日芸能人が些細なことで炎上しているのを見るにつけ思うのだ。

ちょうど今上映している三島由紀夫の『豊饒の海』のパンフレット内のインタビューで、東出くんが『このまま経済成長が行き過ぎて物質社会になれば、人間はどこに幸せを感じ、何をもって豊かな人生とするのかわからなくなる』と三島が警報を鳴らし続けていたことに言及していたのだけど、現代はまさに三島が予見したような時代になりつつある。

お金よりも権力よりも、居場所こそが大きな財産になる。つまり自分だけの安心安全な場所を持っているかがこれからの豊かさの指標のひとつになっていくんじゃないだろうか。

私は仕事とは別にライフワークとして家族の再定義への関心が高いのだけど、それはこうした『居場所のなさ』への危機感に起因しているのかもしれない。

特に幼少期の自己肯定感の獲得はその後の人格形成に大きな影響があると身を以て感じているので、1人でも多くの子が『何かができるから認められる』ではなくて『自分は自分であるというだけで祝福される存在なのだ』と思えるようにするにはどうしたらいいんだろうな、というようなことをよく考えている。

他者の否定ではなく、自己の肯定によって健全に自分を支えるということ。

誰もがそうやって健やかに生きていける社会を、私は目指していきたいと思う。

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