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「無意味に意味を見出そうとする」ことのパラドックス

こないだのNewsPicksの記事で佐渡島さんが紹介していた『役に立つことはみじめだ』という言葉を反芻している。

澤野雅樹さんの『不毛論』という本に出てくる言葉だそうで、この言葉を受けて佐渡島さんは「NewsPicksを読んでいる人たちに、『役に立つ情報を追いかけているのはみじめだ』という感覚を、1回持ってみてほしい」と言っていた。(余談だけど、早速本をAmazonで探したらオンデマンドプリントの本だったのでびっくりした)

前に書いた『儲からないことをやる理由』という記事でも近いことを書いたのだけど、コスパやROIが声高に叫ばれれば叫ばれるほど、無駄なことをやり続けるのは逆張りのブルーオーシャンになっていく。

人は欲深い生き物なので、インプットするなら現世利益のあるもの、特に『楽して・すぐに・目に見える効果のでる』ものが大好きだ。

かくいう私も、もちろん俗世の人間なので日頃からインプットするものは極力役に立つものを選んでいるし、時間が有限である分いろんなものに優先順位をつけざるを得ない。

でもそうやって効率を追い求めていると、そもそも自分が何のために存在しているのかとか、人生の意味とか真理とはなにかとか、そういうことが気になってくる。

そして思う。『役に立つことはみじめだ』と。

少し言い方を変えると、『役に立たなければ存在できないものはみじめだ』と私は思っている。

例えば人間関係ひとつとっても、『これができなければ私は愛されないのではないか』という不安を抱くような関係は、ちょっと寂しい。

もちろん仕事だったり、利害が関係する場では一定ラインの能力が求められるのだけど、だとしても、何かができるから評価されるという軸だけではなくて、人として愛されるとか応援されるとか、そういうことこそが『人間的』だと言えるんじゃないだろうか。

世の中はちゃんと正負トントンになるようにできていて、何かができるようになると、その能力だけが愛されているのではないかという不安がついてまわる。

何かを得ていった先に幸福があるわけではない理由はそこにある。

逆に、役立たないことや無駄なことは、常にそれ自身に余白を内包している。

それはつまり、思考の余地や工夫するための遊びがあるということで、そういうことを『豊か』というのではないだろうか、と私は思う。

世間的には役に立たない、でもただ自分が好きで楽しいと思えること、心地いいと感じることに時間を割ける人生は、幸福だ。

と自分で書いておきながら、こういう話を読んで『よし、じゃあこれから無駄なことをするぞ!』みたいな発想は結局無駄に意味を見出そうとしている時点で矛盾してるよな、と思ったりもする。

冒頭の佐渡島さんの記事を読んで『よし、小説を読むぞ!』と意気込んでも、何かを得ようというマインドですぐには役立たないものをインプットしようとするのは確実に苦痛だろう。

『休まなきゃ』とか『気分転換しなきゃ』という発想も、強制がベースになっている時点で同じような矛盾を孕んでいる。

じゃあどうしろっていうんだ!と思ってしまうけれど、そもそもその矛盾に対して答えがあるという前提をもっている時点で、『役立つこと』という解に意識を乗っ取られている証拠なのかもしれない。

人生の解は外から得られるものではなく、まず自ら打ち立てた問いがあってはじめてスタートラインに立てるものである。

解を探すな、問いを持て。

私は何かに迷ったり立ち止まったりするたび、自分にそう言い聞かせている。

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