ロジックは、個人の感性を一般化するために必要なもの

昨年から小林秀雄にハマっている私ですが、年末年始に「人間の建設」を読み、小林秀雄の対談相手である岡潔にも興味を持ち始めました。

岡潔は日本最高の数学者と呼ばれた人なので、学生時代あまり数学が得意ではなかった私はなんとなく近寄りがたく、それが理由で「人間の建設」も読めずにいたのでした。

しかし、小林秀雄との対談を読んでみると、非常に哲学的で情緒や感性を重視していることがわかり、これまでもっていたイメージが一変しました。

特に印象的だったのは、「数学的に矛盾がないというのは突き詰めると感情の問題である」という話です。

矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足を与えるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。」

数学者というと、とにかく理論的ですべてを合理的に考える人のようなイメージだったのですが、結局人が正しいと思うこと、納得することも所詮感情の問題でしかないという彼のスタンスは、理論的な学問を突き詰めたからこその結論なのだろうなと思います。

実際このセリフの前には、理論上矛盾しているはずの仮説がどちらも矛盾せずに存在できることが証明された、という数学者らしい事例を持ち出しています。

精神論ではなく、数学という学問を突き詰めた人が実感を持って「矛盾のあるなしは感情の問題なのだ」と発言していることは、注目に値するのではないかと思います。

さらに、彼の発言を読んでいて感じたのは、相当に「情緒」や「直観」といった感性の部分を重視していたということ。

すべてのことが人本然の情緒というものの同感なしには存在し得ないということを認めなくてはなりません。(中略)もしできるならば、人間とはどういうものか、したがって文化とはどういうものであるべきかということから、もう一度考え直すのがよいだろう、そう思っています。」

これを読んで思い出したのは、高校時代の数学の先生に言われた
数学は、自分の持ちうる知識をもとに思考を飛躍させる方法を学ぶためのもの
という言葉です。

たしかに数学は上級編になればなるほど、理論の積み上げではなく一段階も二段階も思考を飛躍させて、自ら新しい解き方を編み出す必要があります。

数学自体は卒業してから一度も使う機会はありませんでしたが、たしかに思考を飛躍させるための思考回路の働かせ方は、当時スパルタ式に訓練してもらったことが生きているように思います。

そして当時もう一つ言われていたのは、
数学と小論文は言語が違うだけで他はすべて同じだ
ということ。

思いっきり文系脳で育ってきた私が「国語ならできるのに…」とグチグチ言うたび、文章を書くように数式を書けと何度も言われていました。

当時はなんでやねんと思っていましたが、今思えばたしかに先に自分の中に答えとしての概念があり、それを他の人にも伝わる共通言語で可視化するとうプロセスはまったく同じものです。

このプロセスについても、岡潔が下記のように言っています。

「情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章をかいておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。

つまり、どんな学問だろうと仕事だろうと、まず岡潔が言うところの「情緒」が先にたち、それを他の人にも伝えるための共通言語としての手法が各々違うだけなのではないかと思うのです。

一方で、ビジネスの世界ではいまだに情緒や感情、直観といった「感性」の部分は理性の前に低く見られがちです。

ここ数年でデザイン思考などの思考を飛躍させるアプローチが注目されてきたとはいえ、まだまだ意見を言うためにはファクトとロジックが揃っていることが求められるのが実情です。

私はどちらかというと感覚派の人間なので、いつも「その根拠は?」と聞かれるたびにうまく根拠をもって説明できずやるせない思いをしてきたのですが、今後はますます感覚派と理論派がうまく組むことがとても重要になると思っています。

理論派がファクトを積み上げただけで作った企画は「正しさ」が強すぎて他と差別化できなくなりますし、一方で感覚派が直感だけで作ったものは「不安定さ」が強すぎて再現性がありません。

両者がうまく噛み合うには、感覚派が企画を飛躍させる役割で、理論派がその飛躍の裏付けをしつつ一般に広まるように翻訳する役割であることを、お互いが理解し尊重し合うことが重要なのではないかと思います。

最近周りをみていても、優秀な若い女性たちが「これが好き!」という思いで作ったものを、背後で優秀な男性たちが分析と理論でガッチリ支えることで飛躍している事例を多々見かけます。

これまでであれば、「若い女の子たちがやってるお遊びでしょ」と見下されていたであろうプロジェクトも、理論派の側が「感性の部分は彼女たちに頼ろう」と信頼を寄せはじめたことで、両輪がうまくまわっているように感じるのです。

やはり人を引っ張り熱狂させるのは感性の力であり、それをアウトプットとして落とし込み安定的に生産していくためのプロセスで、誰にでも伝わるような数字と理論を用いて説明するという順序がこれからはますます重要になっていきます。

例えば、どんなにいいインフルエンサーも、その価値を広告主に納得してもらうための理論的なプレゼンができなければ広告費をもらうことはできません。

さらに、今後ますますコミュニティ同士の分断が進む中で、異なるコミュニティ同士がコラボレーションする際にもお互いが理解できるような伝え方ができる人が必要になります。

こうした明確な住み分けとお互いへのリスペクトこそが、よいプロジェクトを作るポイントなのではないでしょうか。

***

「人間の建設」の中で、小林秀雄が文章についてこんなことを言っていました。

「しかし、私は人間として人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。(中略)フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現われていないような文章はおもしろくないのです。」

これからの時代にウケるコンテンツとは何かを考えるとき、私は彼のこの言葉こそが真理であるように思います。

誰でも書ける文章に意味はない。それは自分が書く必然性のないものだから。

なぜそれを作るのか?何のために?誰のために?

そうした問いを常に自分の中に持ち、思考を飛躍させていくことこそが、自らの直観を磨くということなのかもしれません。

私は昔から「beyond discription」というフレーズが好きなのですが、常に自分の中にない感情、言葉にできない飛躍した思考に出会いながら、それを人に伝えるために言語化するプロセスを、これからも楽しんでいきたいと思っています。

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