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私たちは、会社の何を受け継いでいくべきなのか

最近、「伝統」について考える機会が増えました。

私はもともと伝統あるものが好きで、長い時間をかけて削ぎ落とされてきた芯のようなものに愛を感じるのですが、ただそれを「守る」という態度については、常々懐疑的な姿勢を持ってきました。

伝統が「伝統」として流通してしまったら、いつかそれが「足枷」になってしまう。
だからこそ、「伝統」は守るものではなく、あくまで攻め続けるための武器の一つだと認識しなければならない。私はそう思っています。

最近は「会社」というものに対しても似たようなことを考えていて、そもそも会社の中心にあるのは何なのだろう、とよく自問自答しています。

会社の名前。社員の雇用。会社の資産。

何がなくなったら、その会社でなくなってしまうのだろう、と。

これまではずっと名前、つまり「のれん」を守ることがすなわち会社を受け継いでいくことだと思ってきたのですが、最近はなんだかそれも違うような気がしてきました。

というのも、法人格はたしかに生身の人間より寿命は長いけれど、それでもやっぱり原型を留めていられるのは数百年が精一杯で、ほとんどの場合は100年も経たないうちに、オリジナルとは異なるかたちにアップデートする必要があると気づいたからです。

私は幕末史やローマ史が好きで、その完璧なまでに作られた仕組みを知れば知るほど感動してしまうのですが、それでも数百年の時が経てば制度疲労を起こしてしまう。

歴史を遡れば、世の中に永遠なんてものはなくて、自分が作ったものを自分の生きた証として未来永劫残していこうなんて、不可能なんだなと気づいたのです。

でも一方で、徳川幕府が倒れても日本人としての私たちのメンタリティは地続きになっているように、枠としては変わっても、変わらない核のようなものはあるんじゃないかと思っています。

それはきっと、私たちが普段「文化」と呼んでいるもの。

長い時間をかけて、まるで地層のように積み重なって出来上がった、そしてこれからもずっと、連綿と続いていくもの。

大切なのはそんな「核」となる精神を次に受け継いでいくことで、名前や建物に固執するがあまり、本末転倒になってしまうことにもったいなさを感じるのです。

例えば自分が作ったものを手放さなければならなくなったとき、自分の手で解散させることになったとき。
それは「なくなる」のではなく、まるでたんぽぽの綿毛がふわっと風に舞うように、次の種が世に飛び出す瞬間なのだと思います。

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私はあまり自分が所有することに興味がないので、アイデアややり方なんてどんどんパクってほしいし、自分よりうまくやれる人がいたらすべて任せてしまいたいといつも思っています。

それはきっと、この諸行無常の感覚が根底にあって、形を残すこと、形を受け継ぐことにはあまり興味がないのだなと気づいたのは、自分の中の新たな発見でした。

古い建物や昔のファッションも大好きだけど、別に現代に蘇らせたいわけではなくて、当時それを作った人たちが何を考え、どんな思いをもって作ったのか。その精神性を受け継いでいきたい。

さらに、今の私たちが作ったものはただの精神性の可視化であって、その作り上げた器自体は空っぽなわけなので、時代に合わなくなったらもう一度土に還してまた粘土から作り上げていく、その営みの先に文化というのは成り立っているんじゃないかなと思うのです。

その諦観を抱いた上で、それでも文化を前に進めていくことが、今の自分に課せられた役割なんだろうなと、これまでとこれからの歴史に思いを馳せながら、あれこれ思いを巡らせているここ最近です。

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(Photo by tomoko morishige

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