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面で学び、線で考える。

あるものごとに接したとき、自分の中に「意見」が生まれる。
賛成や反対はもちろん、違和感や共感、驚きや感動など受ける印象は多種多様だ。

私はゆうすけ先生がよく使う「感じてはいけない感情はない」という言葉がすきだ。

誰かに嫉妬したり、失敗に対してザマアミロと思ったり、野次馬根性で人の炎上を楽しんだり、そういう「道徳的でない」とされる感情もまた、人の自然な状態であり否定されるべきものではない。

ただ、こうした人を傷つけうる感情を持つ自覚があるからこそ、ある情報に接したときにわき起こる感情をそのまま発露しないように気をつけたい、と私はいつも考えている。

感情が生まれることは自然現象だが、それを公に発するかどうかは理性の問題だ。
そして意見を表明すれば、よくも悪くも誰かに影響を与えることになる。その中には「傷つける」という影響も含まれる。

ニュースや誰かの言動に接して自分の心が動いたときには、自分と異なる立場の発信に接して、一度それを受け止めてみる。

私たちには自分と異なるものに敵対心を持つ本能が組み込まれているので、つい自分と反対意見の人に対して好戦的になってしまうけれど、成熟した社会で多様性と向き合うためには、ものごとを複眼的に見る訓練が必要だ。

情報取得の主戦場がインターネットに移り始めたことで、情報はどんどん細分化され、見出しのワンフレーズだけがひとり歩きして曲解されたまま議論されているシーンをよく見かけるようになった。
それによって、ひとつの視点からその瞬間だけの感情で動く人が増えることに、私は危機感を抱いている。

膨大な情報に溢れる中で、ひとつのニュースや事件の背景を丹念に調べて理解するのは現実的ではないし、自分の立場から受けた印象を発信することは異なる立場同士の相互理解を促す効果もある。

ただ、歴史を紐解いてみると、複雑に絡み合う世界に対して単純化された理想を掲げた結果として悲劇が起きた事例は枚挙にいとまがない。

社会が成熟すればするほど立場に多様性が生まれ、それぞれの利害を調整しあってきた結果が現在のシステムを作り上げている。
解決すべき課題は山積みだが、ぐちゃぐちゃになった糸を無理にひっぱって元に戻そうとしても自体が悪化してしまうように、理想の実現を急ぎすぎるとひずみが生まれてしまう。

正義は、常に「暴走」を内包している。
暴走させないためには、異なる立場を俯瞰して視野を広く持つこと、そしてこれまでの流れを線で理解することだと私は思う。

つまり他者の視点を知ること、歴史の流れを学ぶことである。
こうした努力を怠り、自分の視点から見た理想と目の前の課題解決に固執すると、「平和のための戦争」が起こる。

ものごとの解決は、常に対話と交渉によって行われるべきだと私は考えている。
現代の日本において暴動や内戦が発生することは想像しづらいが、SNSを通して過度に特定個人を攻撃したり、投稿数という数の暴力で解決しようとすることは、新しいかたちの武力行使だと私は感じている。

もちろん声をあげることは必要だし、同じ立場の人たち同士で連帯して提言を出したり交渉することは重要だ。
しかし自分以外の立場を想像すること、そしてこれまでの流れやあゆみを理解することなしに、建設的な話し合いは実現できない。

「なぜこうではないのか」と批判することは簡単だ。
「なぜそうなっていないのか」と疑問を持ち、理由を解明し、ボトルネックを見つけて利害調整の末に着地させるには、よほどの信念がなければできることではない。

だからこそ自分の専門外の分野について発信する際は、その裏に使命感を持って課題解決に奔走し、常に頭を悩ませてきた人たちへのリスペクトを忘れたくない、と私は思う。
そして自分の専門分野に関しては、専門外の人が「広く、深く」理解する手助けになるような発信をすることで、専門外の人も建設的な議論に参加できる素地を整えたい。

日本国憲法第十二条には「国民の不断の努力」という言葉が出てくる。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

私たちが行うべき不断の努力とは、社会をよりよくするための「ものの見方」や「考え方」をまなび、身につけようとすることなのではないだろうか。

こうした一人ひとりの真摯な向上心こそが、社会を前進させていくのだと私は信じている。

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