美しい文章を語り継いでいくこと、のはなし

いわゆる純文学作品が好きだというと怪訝な顔をされることが多い。

三島由紀夫、川端康成、吉行淳之介、梶井基次郎。
私が好きな作家はお母さんから昔言われた「物書きは長生きしないから作家なんて目指したらダメよ」と言われたのも納得のそうそうたる顔ぶれ。

彼らの作品はその思想や構成や哲学もさることながら、なにより描写が美しい。

「白百合の如く清楚、しかも夕日をうけたあの日の御宅の庭の桜の如き、艶やかさは、小生の如き、桜の散り際のいさぎよさを重んずる者は、ひとしお胸迫るものがあったのであります」-恋の都(三島由紀夫)

主人公の想い人である愛国主義者が手紙にしたためる愛の告白はさっぱりとしつつも奥ゆかしく滋味に溢れている。
一文字たりとも増えても欠けてもいけない、はじめからそこにあったかのように自然な、けれども計算しつくされたこの一文は三島作品の中でも特に好きな描写。

潮騒と春の雪もひとつひとつのシーンが情緒に溢れていて、秀麗な空気をまとっているので好きな作品たち。純粋な三島ファンからは顰蹙を買いそうな読み方だけど、心がからからになったときは三島の美しい文章をさらりとなでるように読むと心からじわりじわりと潤いが染みだしてくる。

"I love you"の日本語訳は無限にある。
それが日本語の豊かさと美しさなのではないだろうか、と思う。

夏目漱石が訳した「月が綺麗ですね」は何度読み返しても秀逸だし、二葉亭四迷の「死んでもいいわ」もユーモアと切なさの配合が絶妙だ。

そして直接的な表現をせずにオブラートで包む奥ゆかしさという意味では右にでるものがない短歌たち。
中高生のころから、新学期に国語便覧をもらっては短歌のページを夢中でめくったのを覚えている。

その中でも一番好きなのは、きっと誰でも一度は経験したことがあるであろう「もうこれ以上心にとどめておくことはできない、いっそ死んでしまいたい」という気持ちを歌ったこの短歌。

玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの弱りもぞする

秘密の恋もあるだろうし、伝えてしまったら関係が崩れてしまうような間柄や、駆け引きの中で押しとどめておけなくなってしまった気持ちや。
人間の心というのは何千年たっても変わらないものなんだということを感じさせる。

なにより、1000年以上前に読まれた短歌でもこうしてなんとなく意味が伝わるということのロマンに魅せられていた学生時代。美しい表現を美しいと感じること。それはこの豊かな文化を脈々と受け継いできた私達だけが味わえる贅沢なんじゃないか、と。

言葉も文章も徐々に変化して古くなっていくものだから、そのうちわたしが好きな大正〜昭和初期に書かれた文章たちも"現代文"ではなく"古典"にいれられる日がくるのだろう。もうそんな言葉誰も使ってない、そんな日がくるのかもしれない。

それでも美しい文章を美しいと感じる心は後の世代にも受け継いでいきたい。先人たちの、そしてわたしたちの生きた証として。

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