知的好奇心は後天的に育成しうるのか

ときどき、
なんでそんなにたくさんのことに興味がもてるんですか?』
と聞かれることがある。

思い返してみれば小さい頃から何かにつけて『なんで?どうして?』と興味津々で両親や先生に疑問をぶつけては、『わかる楽しさ』を感じてきた。

さらに当時パソコンなどなかった我が家で、お母さんが『会社のパソコンで調べてくるからね』という約束を毎回守ってくれたおかげで、『調べればわかる』という原体験をしたことも大きい気がしている。

知らなかったことがわかるようになる楽しさ。
そしてそれは自らの手で作れるのだということ。

鬼のような部活をこなしながらも宿題はきっちりやり遂げてきたのも、大学受験に向けて起きている間中ずっと勉強し続けていられたのも、根底にあったのは『わかる楽しさ』だったのだろうと思う。

私はそれが当たり前だと思って生きてきたけれど、自分が好きで読んだり調べたりしたものを発信するようになってはじめて、『そうなりたいけどなれない』という相談も受けるようになった。

特に読書についての相談が顕著で、小さい頃から本好きじゃなかった人が大人になって読書家になることはあるのか、というテーマは何度か仲間内でも話したことがある。

結論として、私は知的好奇心そのものは後天的に伸ばしうる資質だと思っている。
ただ、その範囲と方向性は本人の生まれもった性格による、というのが私の考えだ。

そして多くの人は『知的好奇心』を非常に崇高なものだと思いすぎて、自分にはそんなものないと思い込んでしまっているだけなのではないかと思うのだ。

例えば、最近#畳み人ラジオで設楽さんがおすすめしていたことがきっかけで、先日ようやくTik Tokを使ってみた。

音楽にあわせて自分なりの振り付けをしていいねをもらう。

こうした行動は一見すると知的好奇心とは無関係に見えるけれど、誰かがやっていることを真似して自分でも再現したり、より面白くするにはどうしたらいいかを考えるというのは、知的好奇心なくしては起こりえない。

大人から見ればくだらないものに見えたとしても、彼らは十分に知的好奇心を発揮していると私は思う。

ただ、それは『目の前のことをもっと面白く』という方向への好奇心だから、大人から見ると『もっと有益なことに時間を使えればいいのに』という風に見えてしまう。

社会をもっとよくするとか、新しい価値を作るとか、人としてよく生きるとは何かとか。

若者には、そういう時間軸が長くて規模が大きいものを志向してほしいと大人たちは思っている。

どちらかに優劣があるわけではないけれど、大半の人は目の前の楽しいことを追いかけてしまうからこそ、そこに流されず大きな絵を描ける若手の出現に期待してしまうのは、古今東西問わず年長者の性というものだろう。

では、目の前の日常を面白くしようという改善型の好奇心は、社会全体をアップデートしたいという改革型の好奇心にはなりえないのだろうか。

これは私の中の仮説だけれども、前者の範囲が少しずつ広がったのが後者だとするならば、目の前のことに好奇心をもてる人はいつかもっと大きなことを考えられるのではないかと思う。

スティーブ・ジョブスが提唱した『コネクティング・ドッツ』という考え方があるように、興味分野が増えれば増えるほど、自分のフィールドが広がっていく。

つまり1つのことに熱狂できる人は、別の分野にも興味をもてる可能性が高く、その範囲が広がることで視座も高くなっていく。

そうやって様々な分野に興味をもって自分なりの仮説をもつことこそが、世の中で言われている『知的好奇心』の正体なのではないかと思う。

何かを知りたいと思うこと、そして自ら仮説を立てて学び、『わかった』の快感を得ること。

この報酬体系自体は人間の本能として組み込まれたものだからこそ、せっかくなら時間やお金を浪費する方向ではなく何かを生み出す方向に知的好奇心を使っていきたいと私は思っている。

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