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強くもなく弱くもなく、私は私のままで生きていく

いつの頃からか、『私だってそんなに強くないのに』という言葉に違和感を覚えるようになった。

他人が口にする分には違和感のない言葉も、自分が使うには抵抗がある。

そういう言葉は誰にでもいくつかあるんじゃないかと思う。

ドラマや漫画の中では、強い女性が弱いところを見せたり本当の気持ちを吐露したりすることで『強そうに見えても、人はみんなそんなに強くないよね』というメッセージが含まれていることが多々ある。

だからなのか、人は強く見える人の中に弱さがある前提で話し、相手の弱さが見えないと不安にすらなる人が多い。

心を開くとはつまり弱さを見せることであり、弱音を吐いたり愚痴を言ったりしないのは心を開いていない証拠なのではないか、と。

それは半分正しいけれど、半分違うんじゃないか、と私は思っている。

辛いことや悲しいことは生きていればたくさん起きるけれど、すべてを吐き出すのではなく自分の中に溜めてじっと堪えることが必要なときもあるはずだ。

『言えない』のではなく、『言わない』という決断をするときだって、時にはある。

言ってもしょうがないとか、相手に心配をかけるからといった理由ではなく、自分の美意識や人生観に照らし合わせたときに『これは自分自身の問題である』と判断したら自分で背負うくらいの覚悟を私は持っていたいと常に思っている。

心を開くということは何でも話すことではなくて、何でも話せるという信頼を持つことなのではないだろうか。
実際に口にするかどうかはさておき、どうしてもしんどくなったらちゃんと受け止めてくれる人がいるというだけで、人は強くしなやかに生きていけるはずだと思う。

だからといって、私は『自分は強いから』と言って生きるつもりもない。

強いと口に出さないと立っていられないのは本当の強さではないと思うし、『強いから』という言葉の後に続くのは大抵の場合何かを断る話だからだ。

人の優しさを柔らかく受け止められることも、回り回って自分の強さにつながっていくのではないかと思う。

それはそびえ立つ壁のような頑丈さではなく、風に揺れながら大地にしっかり根を張る木々のようなしなやかな強さだ。

以前、石田ゆり子さんのエッセイを読んだ時に出てきた『しなやかな頑固者でありたい』という言葉がある。

「わたしは『しなやかな頑固者』というのを心がけているんです。頑固というと聞こえが悪いけど、信念を持たないとダメでしょう?人の意見をいったん聞いて、違えば自分の意見を言うというのは必要だと思います。」

この箇所を読んだ時、私が目指す強さの方向性はこれなのだと思った。

信念を持って、しなやかに。

そのためには自分が強いとか弱いとかを声高に言う必要もないし、弱いふりをしたり強がったりせずに自然体であればいいのだ、とふと気づいた。

強くもなく弱くもなく、ただ自分自身であり続けること。

それが本当に強くなるということなのだろうと思う。

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