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男女の友情が引き裂かれるとき

今日も今日とて、また『半分、青い。』の話である。

朝ドラと大河は話数が多い分ハードル高く感じるけれど、一度見はじめるとその人間模様から学ぶことが多いと改めて思うここ最近。

それはさておき、先日見た回で幼馴染の2人が大人になって、『これまで通りにはいかないんだよ』と離れるシーンがあった。

何かあったらいつも連絡をとり、頼り、支え合ってきた2人だったけれど、そんな関係はたしかにそれぞれの恋人から見たら面白くないし、『どっちをとるの!』という話になってしまう。

結果的に2人はもう会わないという結論にいたるのだけど、ここに男女の友情が成立しづらい要因があると私は思った。

『男女の友情は成立するか否か?』はよく議論を巻き起こすテーマだ。

成立すると思っている同士なら成立するし、どちらか一方でも成立しないと思うタイプだったら成立しないだろう。

確率としてはあくまで1/4でしかないが、成立するときには成立する。

ただ、その友情は本人たちの意思だけで存続できるものではない。

前述の通りその関係をどちらかの恋人が不快に思えば崩壊してしまうし、まわりに囃し立てられることで気まずくなることもあるだろう。

私は自分が小中高と公立育ちで、しかも理系かつ体育会系という男性比率の高い環境に長くいたこともあって性別の前に『人間』としての付き合いがあると思っているのだけど、自分はそう思っていてもまわりから見て誤解を受けるような行動をとってはいけない、ということを東京にきてからやっと理解した。

人間関係は当人同士の問題だけでなく、そのまわりも大いに巻き込む。

よく『夫婦は親友のようなもの』と言うけれど、長く友情を続けたかったら客観的にみてその仲の良さに違和感のないラベルを手に入れるしかないのかもしれない。

ドラマの中で鈴愛が『律はずっと私のものやと思っとった…』とつぶやくシーンがあるが、これは恋愛感情とはまた別の、もっと家族に近い感情なのだろうと思う。

ただ、普通のひとは『とくべつ』が複数いることに寛容ではない。

血縁関係があるわけでもないのに『とくべつ』なのは、恋愛感情があるからだろうと考えるからだ。

律の恋人は『律に私の知らない時間があるのが許せない』と怒り、その矛先は『知らない時間』の象徴でもある鈴愛に向いていく。

大人になれば自分と出会う前の時間も増えるし、社会人になれば関わる人を自分で選べるときばかりではないとわかるようになっていくけれど、わかっていても納得できないこともあるし、人の感情は一筋縄ではいかないものだとつくづく思う。

嫉妬すまいと思って感情を抑えられるほど、人の心は簡単にはできていない。

とはいえ、実際には『とくべつ』の種類は相手の数だけある。

恋人は恋人として『とくべつ』なのであって、たとえば戦友や同志と呼ばれる人たちだって『とくべつ』だ。

それらの人たちが全員恋愛対象になるわけではないし、よしんば恋愛対象になったとしても、何人も誰かの所有物ではない以上、それはそれで仕方のないことのような気もする。

私はミレニアル世代以下の価値観として『ボーダレス』があると思っていて、実際に何かを線や枠で区切ったりせずあるがままを受け入れる価値観の土壌が作られ始めていることを感じている。

この流れが加速していけば、もしかすると『男女の友情が環境によって引き裂かれる』ということはなくなるのかもしれないし、そうなるといいなとも思う。

友情における性別なんて、出身地の違いくらいでしかない時代もそのうちくるのだろう、と。

関係性をなんと呼ぶかはさておき、心から信頼できる人が1人でも増えることは人の幸福に大きく寄与する。

だからこそ、恋人や家族以外の『友人』という立場がもっと認められれば、楽になる人が増えるのではないかと私は思っている。

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