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年を重ねるほど口下手になっていくのは

先週話題になったこちらの記事。

「これまでの記事を撤回したい…」沖縄で私はモノカキ廃業を覚悟した

人が生きるということ。

人がものごとを学び、そしてそれを表現するということ。

この2つについてこれほど本質をついた記事はないのではないかと思います。

「不惑」という言葉もあるように、大人になればなるほど世界は強固なものになり惑うことがなくなるのだと多くの人は思っています。

しかし実際には、知れば知るほど、経験が増えれば増えるほど、どんどん「何も言えなくなっていく」のです。

以前「大人になるほど、白と黒の境界線はあいまいになっていく」という記事の中で、随筆家・森田たまのこんな言葉を引用しました。

年をとって経験が増えるほどすぐに決断できるようになると思っていたけれど、実際には逆。
経験が増えるほどあっちの意見もこっちの意見も理解できるから、どんどん優柔不断になっていく。

私たちは大人になるごとに学んでいきます。

世の中に完全な善も完全な悪もないのだと。

そこにあるのは「どちらから見た景色なのか」という違いだけなのだと。

だからこそどちらの気持ちもわかって、どちらが正しいかなんて言えなくなっていく。

はたして私に意見する権利があるのか、と。

そして自分の歩んできた道を振り返って悔やむのです。

ああ今ならわかってあげられるのに、あのとき私は、と。

そんな後悔を繰り返し繰り返して、どんどん言葉がでなくなっていく。

喉元まで出てきた言葉を「過去の経験」が押しとどめてしまう。

知らないのに安易に発言してはいけない、アドバイスしてはいけないと。

私自身、年々会話が苦手になっているのは、過去の経験があらゆるパターンを想定できすぎて相手に何の情報をどう伝えるのがベストなのかを選ぼうとすると途方に暮れてしまうからなのだと思います。

相手になにを言っても間違っているような気がして。

それでも私たちはやっぱり言わなければならないし、書かなければならない。

もちろん無責任なことを書いてはいけないけれど、今この瞬間に自分が自分なりに学んだこと、知っていること、感じたこと、それらを伝えていかなければならない。

人が自分の足で行けるところ、その目で見られるものには限りがあるから。

だからこそ受け取る側も、ものごとと真摯に向き合っている人が発信する情報を選びとっていかなければならない。

まったく当事者でもない、その場に行ったこともない、関係ないだれかの "思い込み"ではなくて、心を砕いて寄り添っている人たちの言葉を。

世界がひっくり変わるような出来事に直面すると、人は動けなくなってしまう。

でも、それでも私たちはやっぱり過去の自分を否定しながらでも、人に伝えることを諦めてはいけないのだと思います。

年を重ねるごとに、書くのも話すのもどんどん時間がかかるようになっているけれど。

人に何かを伝えることが怖くなっても、口をつぐむのではなく時間をかけてでも伝えようとすること。

その努力がきっと少しずつ、でも確実に何かを変えていくのだと思います。

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(Photo by tomoko morishige)

私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。

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