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「電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ」

時間は巻き戻すことなんてできなくて、ただ前に進んでいくのみ。

頭では理解していても、やっぱり巻き戻したいと思うことはたくさんある。

世間的には「後悔」を否定的にとる向きがあるけれど、私はむしろ後悔という感情を自覚し、大切にとっておきたいと思っている。

過去のある地点に閉じ込められてしまった思い出の積み重ねこそが、人生の奥行きだと思うからだ。

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最近改めて近現代の短歌にはまっていて、久しぶりに東直子の短歌を目にした。

電話口でおっ、て言って 前みたいにおっ、て言って 言って言ってよ
(東直子)

「おっ」というのが口癖の元恋人に電話をかけて、昔と同じ口癖を聞きたいという趣旨の歌である。

最後の畳み掛けるような「言って」の繰り返しが、変わっていく相手への切なさを強調している。

過去の恋人を思う熱烈な恋の歌だという解釈が多いけれど、私は相手ではなく「過去」への恋慕の歌なのではないかと思う。

相手の「おっ」という口癖はつまり過去の幸せな記憶へのトリガーで、相手の口癖が変わってしまったことによって「あの頃」はもう決して蘇らないのだという切なさを感じる。

「懐かしさ」を感じるとき、私たちが見ているのはもはや相手ではなく自分の記憶なのだ。

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数年前から知っていたはずの短歌がふと目にとまって心にしみじみとした思いが去来する時、私は自分の中にある感情の襞がアップデートされたことを感じる。

あの頃の私にはなかった感情がいつのまにか育ち、短い言葉に呼応する。

だから私は数年ごしに、何度も同じ歌を読む。

そうして、自分の過去の記憶と経験を言葉という「枠」にいれて昇華するための準備をする。

あのとき、こうしていたら
という後悔は、記憶に蓋をして押し込めるよりも、言葉という枠によって琥珀のように固めることで、宝物になっていく。

あのときの選択を後悔したりはしない。
でも、時々は取り出して眺めて、あったかもしれないパラレルワールドに思いを馳せるのは、大人だけに許された特権なのではないかと思う。

人はみんな、自分の中に「あったかもしれない」世界を抱えている。

幸せだったときを思い出すためのふとした口癖をねだる気持ちが私にもやっとわかるようになったのだなと、掲題の短歌を読んで気づいたのだった。

(Photo by tomoko morishige

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