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「病名」をつけられたい私たち

冬に高熱を出したとき、真っ先に浮かぶのは『もしやインフルでは』という恐怖である。

待合室で結果を待つ間、『万が一インフルだったらあれもこれもリスケだ…!いやでもあれとこれは日程変えられないし、インフルだけはどうしても困る…!』とまとまらない頭でぐるぐる考えていた。

結果としてインフルどころか感染性の類でもなかったので一安心したのだけど、ふと『病名をつけられる安心感』ってあるよな、と思った。

今回はインフルではなかったけれど、インフルだったらインフルだったでもうどうしようもないので、わかった時点で次善の策をとるしかない。

結果さえわかってしまえばそういうものとして受け止めることができるのだけど、一番不安なのは『何なのかわからない』状態だと思う。

そしてそれは病気に限らず、自分の能力やおかれた環境を見るときも同じなんじゃないだろうか。

例えば、ストレングスファインダーがここ最近また注目されはじめたのは、そこに『言い訳』という余白ができるからだと私は思う。

強みだけではなく、下位に羅列されたもの=強みとして持っていないものを知れば、自分の能力をむやみに高く見積もって苦しむ必要はなくなる。

同じように、人に対しても『あなたはこの強みはないけど、これが強みだからこの仕事をお願いね』という頼み方ができる。

でももし自分の強みや弱みを知らなかったら、あれもこれも欲しいのにどれも持っていない、とやたらと不安になってしまうのではないだろうか。

人には自分の行動や置かれた場所について説明ができると安心する性質があって、だから『あなたはこうだよ』と説明してくれるものに惹かれてしまう。

広い意味でいえばきっと占いや『○○診断』の役割も同じで、人に『今』を受容するための言葉を与える仕事の需要はずっと減らないんだろうなと思う。

といったことを考えていたとき、ジーンクエストの高橋さんと話していたとき『遺伝子情報を知ることができれば、今よりもっと自己受容が進むかもしれない』という主旨のことを言われたことをふと思い出した。

たしかに、はじめから体質がわかっていれば自分にできることとできないことを理解した上で努力するか、それとも諦めるかの判断ができる。

つまり自分に与えられた能力を所与のものとして受け入れ、その上で自分はどう生きていくかを意思をもって選び取ることができるようになるのだ。

遺伝子情報は調べる種類によってはほぼ覆せないという意味で究極的な診断なので、知る内容によっては生きることを諦めてしまう人や他人の意思で生命が失われるリスクもあるし、何でも調べて知ることができればいいわけではないけれど、『自分を正しく知る』ことは無駄な苦しみをうまないという意味でとても重要なのではないかと思う。

実際、私もずっと『なんで自分はこうなのか』と長年悩んでいたことを、あるとき『体質としてこうだからだと思う』と説明されて、ふっと肩の荷が降りたことを覚えている。

すべてが努力で解決できるわけではないことは当たり前だけど、私たちはついそのことを忘れて自分の努力が足りないのだと思ってしまう。

できないことは本来『努力すればできたこと』で、『できるまで努力しない自分が悪いのだ』と。

でも、本来考えるべきは『自分は何がしたいか』であって、そのための経路として努力したい人はすればいいし、努力せずに到達できる道があるならそれを選べばいいはずだ。

しかし、多くの人は努力の余地があるとつい『努力でなんとかする』道を選ぼうとして、結果として到達できなくて苦しんでしまうのだと思う。

そうやって無意識に疲弊する道を選ばないためにも、自分を正しく知り、できないことはできないこととしていい意味で諦めることが大切なんじゃないだろうか。

世の中に『普通』の人も『完璧』な人もいなくて、何かしらを抱えている同士が支え合って生きているのが私たちの生きる『社会』なのだから。

できることはできることとして、できないことはできないこととして。

自分に対しても他人に対しても、『まあ、そうだよね』と受容することが、なめらかな世界を作り上げるための第一歩なのではないかと私は思っている。

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