「君かへす 朝の舗石さくさくと 雪よ林檎の香のごとくふれ」

雪の降る季節になると、毎年北原白秋のこの歌を思い出す。

君かへす 朝の舗石さくさくと 雪よ林檎の香のごとくふれ

雪を踏みしめながら帰る「さくさく」という音を、林檎を噛む音に重ね、またほんのり甘い香りを雪にのせる表現のうまさに、口ずさむたび唸ってしまう。

しかし、なぜ冒頭が「君かへす」なのか。

それは、北原白秋が当時関係していた隣家の女性を家に返す場面の描写だからである。

その女性は既婚者であり、二人の関係は俗にいう「不倫」であった。

まだ姦通罪というものがあった時代、北原白秋はのちに囚人として罪に問われることになる。

それだけ、今の時代よりも決死の覚悟を必要とする関係だったのだ。

だからこそ、ふわりと軽い雪にほんのり甘い香りをつけて、自分が送り出す人を包んでほしいという願いを込めたのかもしれない。

公には守ってあげられない存在だからこそ、せめて相手の幸せを誰よりも願うしかない。

「雪よ」という呼びかけには、そんな切実な思いが込められているような気がしてならないのだ。

優しく美しい歌も、その背景を知ると切なさや悲しみが織り込まれていることがままある。

悪いことだと、罪に問われることだとわかってはいても、どうにもならないことが世の中にはたくさんある。

特に男女の関係はいつの世も複雑で、「善悪」で簡単に判断できないことばかりだ。

年を重ねれば重ねるほど、社会的立場や背負っている責任が増え、「好きだから一緒にいる」という単純な話ではなくなってしまう。

もちろんそこを理性で止めるのが人間なのだろうけれど、何かが動くきっかけなんてほんのちょっとの偶然の後押しでしかないのではないかと思う。

愛情の多寡と、関係のラベルには相関がないこともある。

さらに、人の感情も、それを取り巻く環境も、時間によって解決するよりもさらに複雑になっていくことの方が多い。

森田たまが随筆の中でこんなことを言っていた。

「昔は年を重ねれば経験ですぐに判断できるようになると思っていたが、実際には逆で、経験が増えるほどどちらの気持ちもわかるからこそ容易に判断できなくなる」と。

白か黒かではなく、グラデーションを認められるようになるのは、大人になった証なのかもしれない。

***

雪道の中で人と別れる時、ふと振り返って前述の歌を思い出す。

そして、自分の大切な人たちに柔らかく甘やかな雪という名の幸せが、ずっと降り続けますようにと願わずにはいられないのだ。

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