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「好き」は苦しさを背負うこと

「好き」を語ることは楽しくて嬉しい。けれど、好きであればあるほど相手の苦しみを一緒に背負うことになる。なんとかしてあげたいけど何もしてあげられない、そんなもどかしさを付帯して。

どんなスター選手も、シーズンがはじまる直前は「今年も活躍できるだろうか…」と不安を抱えているものだと聞いたことがある。実績のある選手なら自信満々に開幕を迎えてもよさそうなのにと思っていたけれど、いざその日を迎えると自分も楽しみ半分不安半分の状態であることに気づく。過去の栄光をどれだけ積み重ねてきたかは目の前の勝負とは関係ない。大エースにも不調の日はあるし、無敗のまま走り切ることはできない。だから毎回、半ば祈るような気持ちで見守ることになる。

好きな選手がいて、好きな球団があって、毎日毎日祈るような気持ちで応援していると、シーズン全体で見たら苦しい時期の方が長いんじゃないか、と思えてくる。打てない、勝てない、一軍に上がれない、思い通りにはうまくいかない。

中学生の頃「全国優勝したとき以外は泣くな」とよく怒られていたけれど、勝負事において嬉しさはほんの一瞬だけで、99%の時間は「悔しい」が占めているのかもしれないと思う。それは応援する側にとっても同じだ。選手の悔しさが伝わってくるからこそ、こちらも同じように悔しく感じてしまう。

「もっとうまくできたはずなのに、結果につながらなくて悔しい」──。

よくやったよ、もう十分だよと言いたくなるときでも常に向上心を持って自らを省みる姿勢が好きになったとはいえ、背負いすぎる姿を見ているとこちらまで苦しくなる。好きであればあるほど、彼らが感じるプレッシャーも悔しさもわかるからこそ、自分のことのように悲しくなる。簡単に「がんばれ」とは口にできないくらいに。

「負けたら悲しくなるのがわかっててなんで応援してるの?」と聞かれたことがある。

勝った日、活躍した日は嬉しいけれど、それと同じくらい負ける日もあるしなかなか一軍で見られず寂しいときもある。わざわざ人の苦しみまで背負って泣いたりする必要はないんじゃないか、と自分でも思う。

けれど、彼らを応援して同時に苦しみも共有することで、自分の人生だけでは見えてこなかったであろう景色が見える。ポジティブな感情だけではなく、辛さや悲しみのようなネガティブ感情も含めて感情を動かされることが「好きになる」ということなんじゃないだろうか。

「好き」はそれだけで幸せになれる魔法などではない。

むしろ人生は徳川家康が「人生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」と言っていたように苦しいことの方が多い。だからこそ、人生の大半を占める「苦しい時間」を分かち合いながら時折「嬉しい瞬間」を共有する、泥臭い営みなのだと思う。

苦しさを一緒に背負ってでも、近くで応援しつづけたいと思える人。そんな存在を私は「好きな人」と呼んでいる。

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