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何もない場所にワクワクするのはきっと、成長の証。

今日の表紙画像は、私の実家(佐賀県鳥栖市)あたりの車窓から撮った一枚です。

遠くにビニールハウスや倉庫が見えるのでかろうじて現代だと認識できますが、少しでもアングルを間違うと弥生時代〜現代のいつの写真なのかよくわからないほどのどかな場所です。

高校の同級生の中で関東に進学した女子は私だけだったほど保守的な土地柄で(まあそれは九州全域に共通することですが)、当時はとにかくこの「何もない場所」から出たくてたまりませんでした。

遊びに行くと行ったら地元のサティかジョイフル(九州のサイゼみたいなところ)しかなく、友達と集まってもカラオケ→プリクラ→ファミレスのループで、たった18年の人生で心底うんざりしていたのです。

そんな「何もない場所」から出て来た私にとって、東京は自分から行動しなくても勝手に刺激を与えてくれる、遊園地のような場所に感じられました。

私はいまだに、首都圏出身の人に会うたび「よく道を踏み外すことなくここまで大きくなられて…!」という話をして引かれるのですが、自分が中高生のときから渋谷や新宿で遊べていたとしたら確実に道を踏み外していたと思います。

そう真剣に思うくらいなんでもあって、むしろ誘惑するものがありすぎて、自分のほしいものを選び取る労力がかかる街・東京。

そんな東京の情報量の多さがはじめは楽しかったものの、上京して10年近くも経てば情報を受け取ることにも飽き飽きしてきます。

さらに、満員電車や家賃の高さ、緑の少なさなど、東京のアラも見えるようになってきました。

徐々に、いつか帰りたいな…と思い始めたのは、ここ2、3年のこと。

実家をでたときは一生九州に戻ることはないだろうと思っていたはずなのに、最近では早く帰りたいとすら思うようになりました。

そしてつい最近実家に帰って表紙写真の風景を見た時、18歳のときとは真逆の「ワクワク」を感じ、これもひとつの成長なのかもしれない、とふと気づきました。

自分になんの力もないとき、その場を楽しむためには人から与えてもらうしかありません。

情報にしろイベントにしろ商品にしろ、ただ口を開けて待っている状態の人にとって、「何もない場所」というのは苦痛でしかありません。

しかし、何かを作る力をもっている人にとっては、すでに完成された場所よりも「何もない場所」こそが格好の遊び場なのです。

よく子供はクリエイティブの天才だと言いますが、木や草原しかないようなところでも自分で遊びのルールを作ったり、おもちゃになりそうなものを見つけて自作したりして、勝手に遊びはじめます。

大人も同じように、クリエイティブな人であればあるほど、どんな場所でも何かしら面白いことを見つけ、それを育てることで「何もない場所」にいろんなものを作っていきます。

そんなことを考えながら、私は10年かかってやっと、何もないところにワクワクできるようになったのだな、と車窓を流れる景色を感慨深く眺めていました。

そして6月からは、Diagonal Run Tokyoという4月にできたばかりのまっさらなステージも用意されています。

いつか地元という「何もない場所」に面白いことを仕掛けていくためにも、白紙の場所に色を重ねていく実験を、八重洲という場所からみんなでやっていきたいと思っています。

面白いことが生まれる場所にしていく予定なので、東京近辺へお越しの際はぜひ気軽に遊びにきてください!

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