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優しさは、つながっていくもの

ある日の銀座線車内。
2人連れの人が隣になるようにみんなで席を譲り合った結果、大規模な席替えタイムになってしまって、通りすがりの知らない人たちと思わず笑いあってしまった。

別にその人たちを隣り合わせにしてあげる必要なんてないし、自分はすでに座れているのだからそのまま無視することだってできたはず。

でもその時乗り合わせた人たちはみんな
「この人をよりよい形で座らせてあげよう」
と思って、全員がGIVEの精神をもって動いたのだ。

そして最終的に全員がベストなかたちで座ることができ、さっきまで全く知らない他人同士だったのに朗らかに笑い合い、それぞれが降りるときには「いい一日を」と笑顔で別れた。

きっともう二度と会うことはないだろうし、一瞬の幸せではあったけれど、そのときの「優しい気持ち」は私の中に残り、その日は一日上機嫌で過ごすことができた。

優しさや感謝もお金と同じく天下の回りもので、人からもらった優しさはどんどん他の人に分けたり与えたりすると、回り回ってまた自分のところに戻ってくるようになっている。

だから、優しさは自分の中にとどめてしまわないで、どんどん流通させた方がいいのだ。

***

最近、世の中が急に優しくなった。

でもきっと世の中の優しさの総量は変わっていなくて、単純に私が「優しい人」のコミュニティに頻繁に出入りするようになったということなのだろうと思う。

そして人から優しさを受けとると自分も優しさを他の人に渡したいと思うし、そうやってぐるぐる優しい気持ちが循環していく。

こうして「優しさの流通」が多い場所に身を置くことを、人は幸せと呼ぶのかもしれない。

でも、私もはじめから優しい人たちのコミュニティに入れたわけではない。

そこに入るためには、まず自分が世の中に対して優しい価値を生み出さなければならない。
目の前の人に優しくするだけではなくて、世の中をもっとよくするとか温かい気持ちになるようなものを世の中に提供する必要がある。
人によってそれはプロダクトかもしれないし、サービスかもしれないし、文章や写真などのクリエイティブかもしれない。

「儲かるかどうか」ではなく、「優しい価値があるかどうか」を基準に作られたものこそが、これからは評価されていくのだろうと思う。

とはいえ、私もはじめからそういった気持ちをもっていたわけではない。

私はよくも悪くも不足や改善ポイントに気づきやすい分、ともすると優しさや称賛ではなく、攻撃や批難の言葉を口にしそうになることも多い。

しかし、あるとき
「私の言い方に優しさがないから耳を傾けてもらえないのだ」
と気づいた。

それは媚を売ったり自分の意見を押し殺すことではなくて、伝えたいことの芯はもちつつもそれを包むラッピングの色やかたちを人によって変えることだ。

届ける相手に愛をもつ。

それだけで一気に「優しさの流通」がスムーズになって、好循環が起きるのだということがやっと身をもってわかってきた。

***

私の座右の書に「塩狩峠」という作品がある。

三浦綾子の作品はどれも主人公が聖人であることが多いのだが、この作品が特徴的なのは、はじめから聖人なのではなく徐々に考え方が変化していく点である。

幼少期は負けん気が強くて無意識に人を見下してしまうところもあった主人公が、様々な経験を経て人に与えることが大切だと気づき、まわりから「聖人」と呼ばれるまでになっていく。

私たちが彼ほどの聖人になるのは難しいしその必要もないかもしれないけれど、優しさは生まれつき与えられる量が決まっているわけではなく、環境次第で人格を変えることができるのだ、ということを学んだ作品だった。

何かがうまくいかないとき、私たちは意識が「自分」にだけ向かっていることが多い。

でも、「周りの人」への意識をもって優しさの流通の中に身を置くことで、自然と自分の問題も解決してしまうものだ。

優しさは、その場その場で消費されるものではなく、ずっとつながっていくもの。

今後もし判断に迷ったら、より優しいほう、より温かなほう、より柔らかいほうを選んでいきたいと思う。

(Photo by tomoko morishige

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