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泣き言の練習

男の人というのは、想像以上に弱音を吐くのが苦手な生き物なのだなと思う。
しかも、自信のない人ほど弱音を吐けない。
自信があるふりを重ねながら、自分に自信をもつための「なにか」を求めては裏切られている、そんな人を何人も見てきた。

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自信や自己肯定感というのは、子供の頃から受けてきた愛情の量に比例するような気がする。

男の子のコミュニケーションは何歳になっても「先生あのね」で、小さい時からお母さんに思う存分「あのね、あのね、」と甘えてきた子は、大人になってからもちゃんと泣き言を漏らす術を知っている。

昔大好きだったドラマ「プライド」の中で、竹内結子演じるアキが、木村拓哉演じるハルにこんな言葉をかけるシーンがある。

きっと男の子はママで泣き言聞いてもらう練習するのに…
ハルにはそれが出来なかったんだね。
私がハルのママだったら、いつでもきいてあげたのに…
そして、あなたを悲しませる、ありとあらゆるものから守ってあげたのに…

このセリフが秀逸なのは、「言う練習」ではなく「聞いてもらう練習」と言っているところだろう。
「受け止めてもらった」という経験がなければ、実際には少しの段差しかないのに、あたかも断崖絶壁に立っているかのように感じてしまうからだ。

バンジージャンプに怯える人に
「大丈夫だよ、下で受け止めてあげるから」
とどんなに諭しても、最終的に飛ぶことを決めるのは本人にしかできない。

一度受けて止めてもらって安心したら、そのあとは何の不安もなく飛べるのだろうけど。
飛ばないと、一生誰も受け止めてくれないよ。
いつもその言葉がのどまで出かかって、私が言うべきことでもないかな、と思い直し、毎回グッと言葉を飲み込んでいる。

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人を攻撃したり、高圧的な態度をとったり、権力に固執したりするのは、つまるところ愛情が足りていない証拠なのだと思う。

イソップ童話の「すっぱい葡萄」にでてくるキツネのように、本当は欲しいのに欲しくないふりをして、目をそらして、それで自分の気持ちを守ったつもりでいる。
でもやっぱり本質的に満たされていないから、「葡萄が欲しい」「いや、欲しくない」を延々と繰り返すことになるのだ。
そうやっていつまで経っても葡萄が得られない自分に、いよいよコンプレックスを強くしてしまうだけだとわかっていても。

本当の意味で人に自信を持たせるのは「○○ができるから好き」という条件付きの愛情ではなくて、「あなただから好き」という受容の愛情で、それははじめに両親から受け取るものなのだけど、ときどきその愛情の疎通がうまくいかないことがある。

愛情はかたちのないふわっとしたものなので、代わりにお金や名声、権力といったわかりやすいもので埋めようとして、それによって疲弊していっているような気がする。本質的な課題から、目をそらすために。

だからといって、大人になってから両親と同じような愛情を他人に与えてもらおうとするのは無理な話ではあるのだけど、少しずつ分散して、自分の荷物を人に預けてもいいんじゃないかなと思う。

先で紹介したドラマ「プライド」の中でも、あのセリフをきっかけに、ハルが人に頼ることを覚える、というシーンがあった。
ああいう言葉をかけられると現実には依存状態に陥るケースが多いのだけど、途中で引き離される描写をいれたり、うまく「精神的自立」を描いているのがさすが野島伸司の脚本だなと思う。

愛情によって他の人を信頼する力も養うこと。
そこまで見守らなければ、いつか「裏切られた」と思って、もっとこじらせる日がきてしまうだろうから。

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どんな人も必ずいい面と悪い面がセットになっていて、その人のいい面を引き出すのは、どれだけ愛情をかけてもらったかに依るのではないかと思う。

それは仕事も同じで、困ったな、と思う時ほど丁寧に愛情を注いで、手をかけてあげる必要がある。

泣き言を言わせてあげる場所を作るのは大人の責任だし、惜しみなく愛情を注ぐ力をもっているのは女性の特権だ。

1人でも多くの人がきちんと自分の帰るべき港を見つけて、正しい航路へ軌道修正できますようにと、秋の長雨に打たれる街を見下ろしながら、そう願わずにはいられないのだった。

愛することにかけては女性こそ専門家で、男は永遠の素人である。」(三島由紀夫)

(Photo by tomoko morishige

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