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「自分研究」は、永遠に終わらない最高の娯楽

私のツイートは常に『I think』からはじまる。もしくは『I feel』。

なんにせよ、私のツイートの主語は常に『私』だ。

noteに関しても、たぶん他の人と比べてひとつの記事あたりの『私』の量がずば抜けて多いという自覚がある。

これは明確に意識してやっていることなのだけど、主語を『私』という最小単位に限定することが私なりに発言に責任を持つということであり、発信という行動をとる上での誠意だと思っているからだ。

こないだのWEEKLY OCHIAIで落合さんが『普通は○○っていう言葉遣いをするとだいたい僕は怒りますね』という話をしていたのだけど、他にも『みんなは』とか『日本は』とか『我々は』という大きな主語でもって代弁するのは責任の所在の曖昧さという意味で危ないことなんじゃないかと思っている。

もちろん『日本はこうあるべき』とか『私たちはこういうことをしがち』という意見自体は問題ないと思うのだけど、その文節の前に本来は『I think』があることを忘れて無意識に発言してしまうから話がややこしくなるんじゃないかな、と。

私は不用意な衝突による傷つけあいのない世界が善だと思っているので、彼我の違いを受け入れるためにまず自分自身を研究し確立させることが重要だと常々思っている。

『よそはよそ、うちはうち』という感覚は、自己が集団から独立していなければ本当の意味で理解することは難しい。

逆に言えば、『みんな持ってるもん!』と子供が主張するのは『自分』と『みんな』の境目が溶け合って同質化してしまっているからで、ある程度自己が確立されている大人と感覚が異なるのは当たり前のことだと思う。

じゃあどうすれば自己を確立できるのかというと、ひたすら主語を『I』にして考え続けること、つまり好き嫌いや快・不快の理由を言語化しようと努力しつづけることなんじゃないだろうか。

この『自分研究』のいいところは、誰にも迷惑をかけない上にたいしてお金もかからず、しかも永遠に終わりがこないということだ。

そして自分の感情を自分の言葉で語れるようになるとうことは、人の心を安定させる。

書くことや話すことが癒しにつながるのは、自分の感情を誰かに正しく共感してもらえることで荷物が減るからなのかもしれない。

自分を発見し、言語化し、育て続けること。

これからも一生をかけて、そんな『自分研究』の旅を続けていきたいと思う。

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