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人に、人を裁く権利はあるのか

昔から、正義感が強い子だった、と思う。

理不尽なこと、曲がったことが嫌いだったし、正面から戦ってきた。

でも、年を重ねるごとに「そもそも正義なんてものはないのかもしれない」と思うようになった。

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ことあるごとに思い出す「リーガル・ハイ」というドラマの中に、こんなセリフがある。

本当の悪魔とは、巨大に膨れあがったときの民意だよ。自分を善人だと信じて疑わず、薄汚い野良犬がドブに落ちると一斉に集まって袋だたきにしてしまう、それが善良な市民たちだ。」

保険金狙いで結婚・殺人を繰り返す稀代の悪女を弁護することになったとき、「あいつが悪い」という民意のみで人を裁くのなら、司法には何の意味があるのか?を問うとても重いシーンだった。

その時、頭を打たれるような衝撃を感じたことを今でも覚えている。

「正義」という民意によって私たちは日常的に人を裁いているが、その構図は魔女狩りの時代からまったく変わっていない。

誰かが「あいつは魔女だ」と言う。
そのあと火あぶりにするのは、言い出した人ではなく「群衆の力」なのだ。

ひとつの騒動が起きた時、被害を受けた人に寄り添うのは大切なことだ。
その行為に対しては常に「辛かったね」「言ってくれてありがとう」と受け止め、包み込める人間でありたいと思う。

でも、その共感が「加害者への攻撃」になった瞬間、もとの優しい気持ちは変質して、一気に強烈な憎悪になる。

そうして加害者を追い詰め社会的制裁を加えることは、私たちに与えられた権利なのだろうか?

司法とは何のためにあるのか?人が人を裁くとは何か?

感情論で動かされてしまいがちなときほど、自分の正義感を疑いたい、と私は思う。

何かが起きた時、固有名詞で断罪することは簡単だ。

「あの人はもとからそういう人だから」
「あの会社はそういうところがあるから」

しかし、ひとつの現象の責任を誰かになすりつけることは、問題の本質を見えにくくする。

そもそも社会全体で立ち向かう問題のはずが、固有名詞に紐づいた瞬間に私たち自身の思考が止まるからだ。

自分自身は本当に加害者側に立ったことがないか?
これからもそちら側に立つ可能性はないと言えるか?

例えばセクハラ・パワハラの問題は女性は常に被害者として声をあげてきたけれど、これから女性役員やリーダーが増えていく中で、加害者になる可能性は大いにある。

「私もこういう被害を受けた」
と声を上げることはとても大切だが、同時に
だから自分は加害者側にはならない
という決意もセットでありたいと思うのだ。

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あなたがたのうちで罪のない者が、 最初に彼女に石を投げなさい。

少なくとも日本において、日本が法治国家であるかぎりにおいて、個人が個人を私的に罰する権利はない。

もちろん報じる自由はあるし、そこに対して自分の意見を表明する自由もある。
嫌悪するのも自由だし、そこで勇気を得て何かアクションを起こすことにつながることもあると思う。

しかし、報道の中で「悪者」になった人は、私たちのストレスのはけ口ではない

人が人を罰するということは、ともすれば「正義」の名の下に堂々と危害を加えてもよいという風潮になりかねない。
私はいつもそこに危険を感じている。

小林秀雄は、「信ずることと知ること」というテーマについてこう語っている。

信ずるということは、責任を取ることです。(中略) 信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。」

私たちに「考える」という力がある限り、自分の責任がとれる範囲で発言し、行動することが求められる。
自分の正義は自分の中で信ずればよいのであって、本当にその正義に自信があれば徒党を組んで匿名で攻撃する必要はないのだ。

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彼女の勇気をもった告発が、特定個人を苦しめるためのものではなく、社会を前に進めるための英断だったと後から振り返って評価されるためにも、受け手の私たち自身が冷静に読み、理解し、行動しなければならない。私はそう思っている。

これ以上私たちの仲間や後輩たちが同じ苦しみを受けることなく、健やかな道を歩めるように。

何かがおきたとき、常に「誰かを裁く」のではなく「自分はどうするか」を考えるきっかけにしていきたい、と思うのだ。

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