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「好き」にも多様性はある、と思うのだ

「どんな人が好き?」という質問を受けるたびに、「そもそも好きな人って1人じゃなくないですか?」と返してびっくりされるのだが、そもそも私の「好き」の前提が世の中とちょっとズレているのかもしれない、と最近になってようやく気づいた。

私は小さい頃から恋愛体質とは真逆の性格で、崇拝としての「好き」か友人としての「好き」しかないので、常に付き合う人は「一番仲良しの男友達」。

とにかくロマンチックなことが苦手だし、デートするより仕事していたい。

そんな感じで恋愛感情そのものを失っているが故に、逆に私の「好き」は多様性に溢れている。

端的に言えば、私にとっての「好き」は相手ごとに固有のユニークIDが割り振られているようなもの。

なので、「一番好き」「○○より好き」という比較の感覚がなく、独立・完結している事象なのだ。

相手の性別に関わらず、この人の考え方や姿勢が好きだー!と思ったら、「私はこの人が好き。以上!」という感覚で、そこにどんなラベルがつくかはあまり興味がない。

つまり、私には「好き」という依存先がたくさんある、と思っている。

以前「『これがないと死ぬ』を減らしながら生きること」という記事にも書いた通り、私は依存先を増やすことで自分を安定させるということを意識してきた。

だから、「好き」はできるだけ分散させておきたい。

自分の中にもいろんな引き出しがあって、その時々で話したいことや聞きたいことが違うからこそ、いろんな人と仲良くありたいと思っている。

そもそも1人にすべてを求めるなんて無理な話で、「この話はあの人に報告したい」「この件はあの人の意見が聞きたい」と、その時々で時間を一緒に過ごしたい人は変わるし、ベストな距離感もその時々で違う。

私はそんなフリーダムなスタンスなので、たまに誤解を受けることもあるのだけれど、恋愛感情以外にももっとたくさんの「好き」があることが世間一般にも受け入れられるといいなあ、と思う。

もちろん、長く一緒の時間を過ごす人のことを「家族」と呼ぶのだろうし、嬉しいことがあったときの報告も辛いことがあったときのSOSもこの人に受け止めてほしい!というインフラとしての存在にお互いがなれることを目指したいけれど、それだって恋愛感情としての「好き」がなくても十分成り立つものだと思う。

こういう話をするとよく
「それは本当に人を好きになったことがないんだよ!」
と言われるが、ありがたいけれど余計なお世話だなと毎回思う。

恋愛至上主義の風潮にしんどい思いをしている人というのも一定数いて、だからこそ「逃げ恥」のようなドラマがウケたんじゃないかとも思うのだ。(あれも最終的にはわりと恋愛要素が増えるけども)

私も恋愛ドラマや漫画は大好きなので恋愛それ自体は素晴らしいものだと思うけれど、それを強要されるとしんどい。

そのしんどさの根源はどこにあるのだろう、と思っていた時、よしながふみの名作「愛すべき娘たち」の中で、こんなセリフに出会った。

誰かを好きってことは、その人だけ特別扱いするってことでしょう?私にはそんなことできない。

このセリフに、「ああ、なるほどそういうことか」と膝を打つ思いだった。

発言主は、結果的にシスターとして出家してしまうのだけど、博愛主義の行き着く先はそこだよなあ、と改めて思ったのだ。

***

好きな人の数だけ、「好き」の種類はある。

憧れ、共感、安心、いろんな種類の「好き」がある。

だから、みんなもっと「好き」という感情自体には素直になればいいんじゃないかと思う。

その先に、関係性のラベルや自分が独占することを求めるからしんどくなるだけで、「好き」という感情自体は素直に受け止めていけばいいんじゃないのかな、と。

私のように、多様な「好き」の感情を持っている人は一定数いるだろうからこそ、もっと「好き」の多様性が理解されていくといいなと、そんなことを改めて考えた休日の午後だった。

(Photo by tomoko morishige

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