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すべてを、言葉にしてしまわないこと

受動の感受がまずあって、能動の思考を経て認識に至るというのが物を知る順序になりますが、日本人は古来、初めの感受に長い時間をかけ、そこにはすでに思考の大半がふくまれていた。(「色と空のあわいで」古井由吉/松浦寿輝)

朝吹真理子さんのエッセイ『抽斗のなかの海』の中で出てきた古井由吉と松浦寿輝の往復書簡『色と空のあわいで』。

言葉はどう紡ぎ出され、文章としての意味をもち、私たちの思考を作っているのか。

直接的に答えを導こうとするのではなく、まるで木の破片から仏像を削り出すように丁寧に言葉に輪郭をもたせていく。

***

冒頭で引用した一節を読んだとき、岡潔が『わかる』についてこんな風に書き表していたことを思い出した。

わかるためには、『知る』より先に『感じる』が必要である。

それが両者の主張に共通していることだ。

ただ、古井由吉の主張はもう一段踏み込んで、感受に時間をかけることが日本人の古来のあり方だったと説明している。

これは和歌の類を紐解いてみれば合点のいく主張で、四季の移ろいからうまれた感情が溢れ出るように言葉として押し出されてきたかのような言葉の連なりが日本には多数残っている。

心象風景をいかに正確に言い表しているかよりも、音韻のなめらかさや感情に直接訴えかけるリズム、一瞬を切り取る視点の鮮やかさ。

もちろん美しいとされる歌はある程度ロジックや教養をもとにした掛詞があるものだけれども、千年以上も歌が残り愛されてきたのは、人間の普遍的な感受性に根ざしているからだろう。

作ろうと思って無理やり『よさそう』なものを作るのではなく、言葉にならない感情があふれた瞬間にぽとりと実になって落ちてきたような言葉。

和歌に限らず、残り続ける言葉には小利口に何かの枠に収めてしまおうとしなかったからこその芳醇の香りがする。

それはきっと、本人が自分の紡ぎだす言葉に自ら得心しているからこそ醸し出せるものなのだろう。

リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的なんじゃないかと思うんです。
(中略)
しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。(「色と空のあわいで」古井由吉/松浦寿輝)

必要以上に言葉が溢れる今、自分の言葉で話そうとすることは想像以上に難しい。

口から発している言葉は果たして自分の真意なのか、どこかで聞きかじっただけのものなのか、私と世界の境目がわからなくなっていく。

それでも私たちは何かに追い立てられるように言葉を組み立て、何かを発しなければと日々焦っている。

そしていつのまにか『時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む』ようになってしまう。

嘘をつかずに言葉を紡ぐということは、もしかするとこうした理屈をもとにした説得を試みるところから自己を解放し、感受性という名のコップが満ちるまで辛抱強く待ち続けることなのかもしれない。

今こうしている間にも、コップには一滴、また一滴と雫が溜まり続けている。

自分が感じているものの正体を『情的にわかる』まで、ゆっくりと眺め味わうこと。

本物の言葉こそ、そうして自然に紡がれていくものなのだろうと思う。

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