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「考える」とは、自己と向き合う時間

「インプット」と「アウトプット」という言葉がある。

本を読んだり話を聞いたり、自分の中に何かを取り入れる「インプット」と、それを自分なりに咀嚼した上で表現する「アウトプット」。

この2つのバランスが大事だというのは至るところで言われていることだ。

特にアウトプットは意識しなければできないことでもあるので、行動に移すとか文章やトーク、それ以外にも絵や音楽など何かしら表現することは是とされている。

たしかに、日がな1日スマホを眺めただけで満足感を得てしまうよりは、明確にかたちあるアウトプットを作る方が何倍も自分を成長させる。

ただ、本来インプットとアウトプットの間には「考える」というフェーズが必要なはずだ。

借りてきた言葉ではなく、自分の言葉として表現すること。

その2つの違いを作るのが「考える」ということなのではないかと思う。

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言葉が思考の道具であり、同時にアウトプットのフォーマットであるならば、「自分の頭で考える人」とは「自分の言葉で語れる人」なのではないかと思う。

例えば古典や過去の偉人の言葉を引用していたとしても、自分の言葉として語れる人はたくさんいる。

一方で、言い回しは本人のものだとしてもなんとなく地に足ついていないような、言葉が本人の体から浮いているような印象を受けることもある。

つまり自分の言葉で話すというのは、オリジナルの言葉を使うということではなく、その言葉が「自分のもの」になっているかどうかが重要なのかもしれない。

ではどういうときに言葉が自分のものになっているかというと、すでに本人の中にあった仮定がある言葉という枠によって表出するという順番が重要なのではないかと思う。

言葉の表層を捉えて賛同するのではなく、自分の思考に照らし合わせた上で自分の意見として言語化すること。

それが自分の頭で考えるということなのではないだろうか。

つまり、考えるということは外的世界vs自分ではなく、自己の内面を見つめ、自己検証するプロセスに他ならない。

あらゆる事象に対して
「自分はどう思うのか」
「自分ならどうするのか」
「なぜそう感じたのか」
と常に自分に問い続ける。

こうした自己との対話の精度を、「感受性」と呼ぶのではないかと私は思う。

私はここ最近、人の正義に乗っかることの危険性について考えているのだけれど、それはこの「自己との対話」というプロセスをすっ飛ばしたアウトプットだからなのかもしれないと気づいた。

賛同にせよ批判にせよ、権威や世論に迎合することは自分で考えなくてすむ分とても楽だ。

特に正義感というものが一番やっかいで、あくまで自分は正しいことをしているのだという思い込みはあらゆるリスクを見えなくしてしまう。

一方で、自己との対話が日常の中で自然にできる人たちは、自分の基準がある分、人の基準に対しても寛容なことが多い。

自分にとっての正義がAの道だったとしても、B、C、Dと他の道があることも理解した上で、それを侵害しないように「いちいち口に出さない」という判断をする。

こうした姿勢を人は「知性」と呼ぶのではないかと私は思う。

インプットとアウトプットを高速で繰り返すだけでは、「知識」は身についても「知性」が身につかないのは、自分と対話して考える時間を持たないからだ。

自分の感情や気づきに向き合い、深掘りし、唯一無二の判断軸を作っていくこと。

そのためにはインプットとアウトプットの間に「考える」というプロセスが必要不可欠なのだと、私は思っている。

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