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詩歌は「共感」ではなく「驚異」との出会いである、のだそうで。

毎年この時期になると、新しい教科書をもらえる日が待ち遠しくてたまりませんでした。

クラス替えでみんながそわそわする中、私はもらったばかりの教科書を早く家で読みたくてうずうずしていたのを昨日のことのように覚えています。

国語のみならず、算数、理科、社会、果ては家庭科や美術の教科書まですべて一晩でざっと読み「今年はこんなことを勉強するんだ!」とうきうきするような子でした。

その中でも一番好きだったのは国語便覧。

特に万葉集や古今和歌集から抜粋された短歌とその解説が大好きで、授業で習う前に諳んじられるほど読み込んでいました。

たった31文字で表現される、四季の移ろいや細やかな感情の襞に、子供ながらに感動していたものです。

大人になってからも俵万智の「恋する万葉集」や「あなたと読む恋の歌 百首」を手に取って現代的な短歌を楽しんできたのですが、先日穂村弘の「整形前夜」を読み、詩歌が人にもたらすものについて改めて考える機会がありました。

穂村曰く、詩や短歌は意味がわからなと敬遠されがちだけれど、実際には作り手側も他人の作った詩歌の意味はわからずに読んでいることが多く、その中でも2割くらい胸に迫るものと出会う瞬間があるから読むのだと。

言語表現には「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」のふたつの要素があり、「共感」に訴えかけるエンタメ小説と「驚異」を抱かせる詩歌や純文学はまったく別の役割があるのだと。

「驚異」は世界を覆そうとするもので、人は生き延びるための本能から「共感」を求めてしまうけれど、驚異がなくなった瞬間世界は更新されなくなり、それは滅びに向かっていくことに他ならないのだと言います。

つまり「共感」的な文章はすでに知っていることを言語化してくれる、自分のテリトリーの中にあるものだからこそ心地よく感じるぬるま湯のようなもの。

しかし人が成長するためには自分の枠を飛び越える瞬間が必要です。

しかもそれは、自分の中に何もない若いときほど必要な経験なのです。

卵が先か鶏が先か、と同じく、感情が先か言葉が先かという議論もあると思っていて、自分の中にある感情にうまくラベルをつける作業と、ある言葉を発見したことによって見えるようになるものという2つのアプローチがあり、詩歌や純文学に触れるということは後者に近い行為なのではないかと思っています。

それはまだ私の中にはないもの。

でもきっといつか私の中に育まれる、もしくは出会う感情。

世の中にそんなものがあるのか、という驚きを求めて、人は詩集や歌集、純文学と呼ばれる小説を手に取ってしまうのでしょう。

理解しよう、共感しようなんて思わなくてよくて、ただそのリズムや浮かんでくる情景を楽しんでいると、あるときふと「そういうことだったのか」と心に馴染む瞬間がくるように思います。

まるで世界の上下がまるであべこべになってしまうような、絶対だと思っていた足元がぐらつくような、そんな出会いを求めて、私はまた今日も日の当たる図書館から一冊を選びとってしまうのだろう、と。

ということで、最近手に取った穂村弘の歌集「シンジケート」から、個人的に好みだった歌を紹介したいと思います。

***

抱きたいと いえば笑うか はつなつの
光に洗われるラムネ玉

自転車の サドルを高く上げるのが
夏をむかえる準備のすべて

「サメはオルガンの音が好きなの知っていた?」
五時間泣いた後にお前は

薬指 くわえて手袋脱ぎ捨てん
傷つくことも 愚かさのうち

終バスに ふたりは眠る
 紫の<おります>ランプに取り囲まれて

「海にでも 沈めなさいよ そんなもの
魚がお家にすればいいのよ」

***

どれもひとつひとつ感想を書きたいくらい好みなのですが、短歌はそうした先入観なく「驚異」を感じて自分で情景を想像する方が楽しめるのではないかと思います。

とはいえ作者がその歌を作った背景を知っている方がより楽しめるものというものもあって、例えば

君かへす朝の舗石さくさくと
雪よ林檎の香のごとくふれ(北原白秋)

という歌は、長らく不倫していた交際相手を見送る朝の情景を表現したものです。

不倫という背徳的な恋愛だからこそ、降り積もる雪に彼女の足跡を消してももらいたいという心情が入っていたり、「さくさく」という音に感じるもの哀しさは背景を知っていればこその楽しみ方です。

他にも

一度だけ本当の恋がありまして
南天の実が知っております(山崎方代)

という歌は、ほぼ恋愛の歌を残さなかった歌人が唯一残した恋愛関連の歌で、彼の秘密主義とその生き方の美しさを感じさせます。

ただこうした背景を知るのは存分に言葉の「驚異」を体感してからで十分で、感動を含む「共感」に足を踏み入れた瞬間それは自分のテリトリーになってしまうからです。

理解できない、自分の外側にあるものと出会う。

それが詩歌の存在意義であり、自分の枠を広げるためにもこうして定期的にコンフォートゾーンから抜け出る必要があるのではないか、とそんなことを感じた最近の読書体験でした。

「知れよ、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い所では人は寧ろニガムシつぶしたやうな表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシつぶしている所が芸術世界で、笑ふ所はもう生活世界だと云へる。(「芸術論覚え書」中原中也)」


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(Photo by tomoko morishige)

私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。


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