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人は、自分が慣れているものを好きになる

東京にでてきて少し経った頃、久しぶりに帰省して東京の暮らしについて両親に話して聞かせていました。

中でも、『食べ物が合わない」というのは田舎の子にとっては鉄板のネタ。

醤油も味噌もうどんも、全部自分が慣れた味とは違う。

その驚きとともに、『やっぱり食べ物は地元が一番おいしい』という話をしていたときのこと。

東京の人たちはおいしいものを知らないのだろうかという私に、母がポツリと『人は自分の慣れた味をおいしいと思うものなんよ』と言いました。

もう10年以上も前のことなのにこんなエピソードをいまだに覚えているのは、それが人の好みの基準がどうやって作られるのかに気付かされた瞬間だったから。

私は地元のごはんが一番おいしいと思っていたけれど、それは私がその土地に育って『慣れている』からであって、ある一定のレベルを過ぎたら優劣ではなく好みの問題になるのだと気づきました。

若いうちは自分や近しい人たちの判断軸しか知らないのでそれが絶対の解だと思ってしまうけれど、触れてきたものが違えば常識も好みも違う。

18年生きてきて、そのことに初めて気付かされたのです。

そして、人は自分が触れてきた時間が長いものに好意を持つ、ということも。

味覚に限らず、絵や写真や本や音楽、映画、そして好きな人や生き方でさえも。

自分の意思で選んだように見えて、実はその好みや判断軸は、自分が育ってきた環境や過ごしてきた時間が重なって醸成されたもの。

つまり、未来の『好き』はこれまで積み重ねてきた『好き』の延長線上にしかないのです。

逆に言えば、なんとなく嫌悪感を持ってしまうものや拒否反応を示してしまうものは、実は単に自分から遠い存在だったり、よく知らないだけなのかもしれません。

自分に近いものは『好き』になりやすく、自分から遠い存在には無意識に『嫌い』という反応を下してしまう。

『好き』はときに複雑だけど、実はそんなシンプルなことなのかもしれない、と味噌汁をすすりながら考えた休日の午後でした。

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