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記録以上に、「物語」が人を励ますこともある

私は「エース」が好きだ。

それだけ聞くと、とんでもないミーハー野郎に見えるかもしれない。いや実際にミーハーな部分もなくはないのだけど、大記録を打ち立てたり他を寄せ付けないほどの圧倒的な力に惹かれるわけではない。

むしろ、エースであるがゆえの重責を背負いながら、期待に応えようと苦しみながらもがく姿にグッとくる。

特に野球のエースは、バッターではなくピッチャーだ。「負けてはいけない」プレッシャーが、エースの両肩に重くのしかかる。

スポーツ、特にプロの世界では数字がもつ力は絶大だ。

目に見えてわかりやすい記録は、人に夢を見せる。
子供たちは「将来ああなりたい」と目を輝かせるし、大人たちも「勇気をもらった」と持て囃す。

地元の誇り、日本人の誇り。
「記録」は、自分の身の回りだけでなく、会ったこともない人にまで感動を与え、力を与えることができる。

だから誰だって金メダルを取りたいし、日本記録や世界記録を出したい。自分が活躍することが、一番になることが、自分のためだけではなく誰かのためでもあるからだ。

けれど、「一番」の称号はたった一人にしか与えられない。
世代ナンバーワンの称号も、前人未到の記録も、ほんの一握りの人しか掴むことはできない。

しかも、その栄光は長くは続かない。天才だ、怪物だと持て囃されたエースも、5年経ち、10年経ち、体が衰えればいつかはエースの座を奪われる。怪我などしようものなら、一年も経たずに引き摺り下ろされることもある。

長くプロ野球を見てきて、エースは嬉しい瞬間よりも苦しい時間の方が長いんじゃないか、と思った。

思うようにいく日の方が稀で、たとえ結果だけ見れば快勝だったとしても、試合経過を見ていると何度もピンチを迎え、苦しい場面をなんとか切り抜けての結果だとわかる。

しかもエースの試合は「勝って当たり前」であって、負けたら非難轟々のわりには勝ったところで褒める声は少ない。そんなプレッシャーの中で、もはや何と戦っているのかすらわからなくなりそうな状況で、エースは一人淡々と投げている。

その姿が切なくていじらしくて、結果が出せずに世の中から見放されているときほど、私は「エース」の姿を目で追ってしまう。

一度でもエースとして持ち上げられたことのある人は、どうしてもどこかのタイミングで「落ちる」ことがある。高く舞い上がれば舞い上がるほど、その落差は大きい。

大半の人は結果が出せなくなった存在には見向きもしなくなるものだけど、私はむしろ、そこからが物語のはじまりであり、人を励ます力を秘めている、と思う。

だって、大半の人は思い通りにいかない経験をしているものだし、結果が出せずにもがき苦しんでいるものだから。

信じられないような偉業を達成する姿にはたしかに元気をもらえるけれど、どこか「自分とは違う世界の人」として眺める部分もある。けれど、壁に直面して、どうにかそれを乗り越えようともがく姿には、自分を重ねて共感することができる。

もちろん第一線で活躍するエースと凡人の自分とではそもそものスタートラインが違うのだけど、雲の上の存在ですら苦しみ悩むのだ、しかも高く舞い上がった分だけより深く暗いトンネルのなかで、諦めることなく壁に立ち向かっているのだと知ることで励まされることは多い。

だから、私はエースのなかでも一度スランプを経験したり、苦しい期間を過ごしたことのある選手が好きだ。

全盛期は過ぎたといわれてもなお、いやだからこそ、なお菅野に惹かれ応援し続けているのも、彼の選手人生のすべてが「物語」として私に励ましをくれるからなのかもしれない。

もう一人、どうしようもなく惹かれる選手がいる。それが阪神の藤浪晋太郎だ。

高校時代には春夏連覇を成し遂げ、大阪桐蔭から鳴り物入りで阪神に入団し、高卒エースとして何年も期待に答えてきた藤浪。それまでの実績があまりに素晴らしすぎて、ファンからの期待も当然のように年々膨らんでいった。

だからこそ、彼が勝てなくなってからの落差はより凄まじいものだった。これはどうやら単純なスランプではないらしいぞ、と野球ファンが気づいた頃には、もはやある種のネタとして扱われ、藤浪はどんどん「過去の人」になっていった。

私もご多分にもれず藤浪に諦めを感じつつあったのだけど、ほとんどのファンが「藤浪は移籍した方がいいのでは?」と語るなかで、あえて阪神にいることを選びつづけていると知ってから見方が変わった。

昔に比べて、環境を変えるハードルは格段に下がった。転職のハードルが下がったように、プロ野球界でも移籍はそう珍しいことではなくなった。ドラフト1位の元エースといえど、トレードに出す例もでてきた。しかも、移籍による「成功事例」も生まれつつあった。

だからこそ誰もが「藤浪も環境を変えれば復活するんじゃないか」と考えていた。

けれど、藤浪は頑なに動かなかった。それが本人の意思なのか、いろんなしがらみの結果なのかはわからない。ただなんにせよ、藤浪は移籍することなく阪神のなかで復活を目指して試行錯誤を続けることになる。

藤浪が一軍のマウンドで投げるとなると、阪神ファン以外のあいだでもちょとした話題になる。私も藤浪が先発すると聞けば、自分の贔屓球団との試合でなくてもつい見てしまう。

まだ藤浪が高卒エースとして活躍していた頃に私たちがイメージしていた姿とは、たしかに違うかもしれない。けれど一歩一歩確実に、彼は何かを克服しつつある、と試合を見るたびに感じていた。勝ち負けの結果よりも、「いい球」と思える投球の割合が増えることの方が、私にとっては喜びだった。

そして先日たまたま藤浪が先発した試合を見て、全盛期の頃のあのわくわくさせる投球が戻ってきていることに、深い感動を覚えた。

ほとんどの人にとっては、ただ藤浪に負けがついただけの試合だったかもしれない。けれど藤浪のこれまでの歩みを知って見ると「よくぞここまで」と感動が胸いっぱいに広がる試合だった。

前述のnoteを書いたときにはまだ藤浪の「阪神に残る」という選択に半信半疑だったけれど、8/13の試合を見て、彼はちゃんと自分の選択を正解にしつつある、と確信した。

藤浪が18歳で阪神に入団した頃、その活躍に期待で胸を膨らませていた人たちからすれば、今の姿は物足りないものがあるかもしれない。

けれど私は、今の藤浪の姿にこそ、そしてこれまでの彼の物語にこそ、強く惹かれ励まされるのだ。

私たちは当たり前のように藤浪が投げる姿を見ているけれど、普通の人が藤浪と同じ境遇になったら途中で諦めてしまっただろう。投げ出してしまうだけの理由はいくらでもあった。
10代からエースとしてもてはやされてきた分、あからさまな手のひら返しに「傷ついた」なんて言葉では表せないほど辛い思いをしてきただろう。まだ20代前半だった若者が背負うには、あまりにも重たい荷物だ。

だから私は、藤浪が今もプロの第一線で投げ続けていること自体を奇跡のように感じている。それは彼の強さの賜物で、野球の能力だけでは測れない、「藤浪を応援したくなる理由」だ。

辛いこと、思い通りにいかないことに直面したとき、私は自分の愛するエースたちを思い出す。

私よりはるかに重い期待とプレッシャーを背負い、その期待に応えようともがき苦しみ、いいときと悪いときの落差をこれでもかというほど味わい、それでも自分の仕事に向き合い続ける強さ。

夢のような記録を打ち立てるよりも、そんな泥臭い物語こそが、私がエースに惹かれ、励まされる理由だ。

そして決して「エース」とはいえない私もまた、結果ではなく物語で、どこかの誰かを励ますこともあるのかもしれないと背筋を伸ばすのだ。

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