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愛する人が変わっていく痛みの大きさ

大切な人を失う経験において、亡くすということと相手が生きたまま変わっていくのを見守るのは、どちらのほうが辛いことなのだろう、と思う。

いっそのこともう二度と会えない方が楽なのか、どんな状態でもいいから生きていてほしいと思うのか。

相手が少しずつ「その人らしさ」を失っていったとして、どこまで私たちの愛情は続くものなのだろうか。

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小室哲哉さんの引退会見書き起こしを読んで、一番苦しくなったのは妻のKEIKOさんがもう音楽への興味を失っている、というくだりだった。

KEIKOは歌手として大きな存在だったと思うんですが、残念ながら音楽への興味は日に日に減ってきています。カラオケに誘ったりCDを聴いたりしても興味を持ちません。最初期に無理やりレコーディングスタジオに連れて行って1曲歌ってもらったけど、それ以降はもう歌うことはなくなりました

夫である前に一人の音楽家として、KEIKOという歌手を失ってしまったショックは計り知れないものがあったのではないかと思う。

歌えることが愛情の条件では決してない。
でも、「歌」は彼女を構成するとても大きな要素だったはずだ。

だからこそ、病気の後遺症で少しずつ音楽から離れていくKEIKOさんを見て、なんともいえない孤独を感じてしまっただろうことは想像に難くない。

病気によって、愛する妻だけではなく自分の音楽を支えてきた大切な歌手まで失ってしまったのだから。

それでも、7年もの間ずっとKEIKOさんを支えてきたのは、愛情が変化していったからなのだろうと思う。

「女性というよりも子供のようで、今のKEIKOのほうが愛情は深いです。離婚という大人の言葉が浮かんでこないです」

昔の妻は昔の妻として、今の妻は今の妻として、それぞれに愛情を感じている。

ただ、昔の輝かしい歌手としてのKEIKOを知っているからこそ、「せめてもう一度歌ってほしい」という希望と、それに付随する絶望を毎日のように味わってきたのだろうと思う。

愛する人が、少しずつ変わっていく。
唯一の自分の理解者だった人に、少しずつ自分の言葉が届かなくなっていく。

愛していればこそ、その苦悩はより深くなる。

自分は今、「過去の思い出」を愛しているのか、「目の前の相手」を愛しているのかわからなくなって、どんなに相手が変わっていっても愛していると断言できない自分に、さらに自己嫌悪になっていく。

変わっていく相手を受け止められないのは、自分の力が足りないからなのではないか、と。

彼らの話は特別なことなんかじゃなくて、誰にでも起こりうる話だ。

愛する人が変わっていく様を見て、自分の言葉が届かない辛さを抱えて、それでも強く生きられる人なんていない。

「私たちはそんなに強くできていない」というところからはじめるべきなのだ、本当は。

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「悲しみの秘儀」の序盤で、若松英輔はこう言葉を紡いでいた。

人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。
悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。

長く生きれば生きるほど、悲しみや苦悩に直面する回数も増えるだろう。

それでも、彼ほどの表現者であれば、きっと次の扉を開いてくれると信じている。

「90年代よもう一度」という期待に応えるための創作ではなく、ただ彼自身と大切な人のために書かれた曲を、もう一度聞きたいと私は思う。

今回の会見が、後から振り返った時に「小室哲哉の終わり」ではなく「小室哲哉の第二幕のはじまり」だったと言われる日がくることを、私は心から祈っている。

悲しみの中にそのパンを食したることなき人は、
真夜中を泣きつつ過ごし、早く朝になれと待ちわびたることなき人は、
ああ汝天界の神々よ、この人はいまだ汝を知らざるなり。
『禅の第一義』(鈴木大拙)

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