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「暴かれない権利」を守ること

フォロワーが増え、私の発言に耳を傾けてくれる人が増えるにつれて、その状況に怖さを感じることも増えてきた。

何万人にフォローされようと言いたいことは言いたい。

自分の発言で多少批判されたって、それは自分の責任だから問題ない。

でも、そこにまわりの友人や大切な人たちを巻き込んでしまったら。

ボタンひとつで世界とあらゆることを共有できるけれど、同時にボタン一つで永遠に消えない傷を作ることだってある。

KaoRiさんの告発は、改めてその怖さを考えさせるものだった。

同意なく撮られ、公表された写真。
それは永遠にインターネットの海を漂うことになる。

今回の騒動を「写真家が悪い」と批判するのは簡単で、でもそれに近いことを自分もしていないだろうか、と振り返るのは勇気がいることだ。

身近な例で言えば、SNSにパートナーや友人の写真をアップすること。
エピソードを面白おかしく公開すること。

自分に発信力があればあるほど、それらの行動が相手を傷つけることだってあると意識する必要があると私は思う。

フォロワーが多くなくても、RTやハッシュタグの盛り上がりによって、あっというまに拡散されることがある。

私はどちらかといえばテキストで表現することが多いけれど、なるべく発言内容から発言主が特定されないように内容を改変したり、時間差をつけて誰の話かわからないように工夫したりしている。

それでも嫌な人は嫌だろうし、ツイートする前には必ず許可もとっている。

人には人のブランディングというものがあって、それを勝手に崩すのは人権侵害にもなると思うからだ。

これはKaoRiさんが受けた精神的ショックに比べるとまったく規模の違う話ではあるけれど、本質的は同じことだと思う。

何びとたりとも、勝手に私生活を暴かれない権利をもっている。

「それは私のプライベートだから、勝手に発信しないで」と言う権利。

SNSが当たり前になった時代だからこそ、私たちは今一度このことについて考える必要があるのではないかと思う。

人は弱い生き物だから、他人の秘密を暴くことに快感を覚える習性があって、世のゴシップや噂話はそんな「弱さ」で構成されている。

この弱さが完全に克服される日はこないかもしれないけれど、その弱さに自覚的であること、そして自分のもつ力が誰かを傷つけているかもしれないという意識をもっておくべきなのだと私は思う。

もしいつか誰かを傷つけてしまったとき、すぐに後戻りできるように。

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私はこれまで #metoo の運動に対してあまり積極的に発言をしてこなかったのだけど、それは自分に語るものがないということもさることながら、「対立」の意識が強すぎる気がしていたからでもある。

もちろんこれまで虐げてきた人たちは糾弾されるべきで、それ相応の処分も受けて次の世代で同じことが繰り返されないようにその連鎖を断ち切ってほしいと思うけれど、敵と味方をきっちり分けすぎることは危険なことでもあると私は思っている。

悪いことは悪いとはっきり示したとしても、なぜそうなったのかの背景を理解しなければ、根本的な解決にはならないと思うからだ。

でも、今回のKaoRiさんの告発は、これだけの辛い経験をしながらも、相手を苦しめるためではなく「次の被害者を出さないため」に心血を注いで書かれていた。

悲しいことだけれど、性別に関わらず夢をもつ人を騙そうとする人は一定数いる。

もちろん悪意をもって騙す方が悪いのだけど、騙す人がいなくならない以上、身の守り方を教えることも先人の役割なのだと思う。

今回の記事とあわせて、KaoRiさんのこの有料noteも買って読んでみた。

そこで感じたのは、記事の端々に感じられる「同じ思いをする人がいなくなりますように」という願いは、彼女のしなやかに強く人生を受け入れようともがいた体験が生んだのだということ。

これだけのショックを受けて、それでも自分の人生を肯定するのは並大抵のことではないけれど、怒りに任せて報復のような告発をするのではなく、この経験をした意味を自分なりに解釈し、納得するプロセスを経たからこそ、人の心を動かすものに昇華されたのだと改めて感じた記事だった。

なんのために伝えたいのか、人をどう動かしたいのかということ。
そして、そのためにどんな伝え方をしなければならないのかということ。

告発の勇気とともに、KaoRiさんの聡明な文章と温かな姿勢に敬意を表して。

彼女の人生が、これからより豊かで優しいものになりますように。

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