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人は「記号」に対して怒る

ここ最近、以前にも増して『炎上』という言葉を耳にする頻度が上がったように感じます。

さらに、炎上までいかないニュースへの批判や罵詈雑言まで含めれば、毎日そこかしこで人の怒りが可視化されているのが現状です。

そうした怒りを見ていて思うのは、人が怒ったり攻撃したりする対象とその感情の発露には一定のパターンがあるということ。

特に、肩書きや法人格、組織などの『記号』は、人の顔が見えないこともあってか批判もヒートアップしがちです。

どこかの会社の社長だとか、なんとか協会とか、業界そのものとか。

レッテル貼りやカテゴライズをして批判するのは感覚的にわかりやすいので、一度批判がはじまるとあっという間に延焼してしまう印象です。

さらに、単に組織が大きいだけではなく、自分との距離が遠い人のことを人は人だとみなさないという傾向もあるようです。

例えば、私たちは普段の会話の中で、芸能人やスポーツ選手のことを呼び捨てにしていることが多いものです。

しかし、一度仕事でお会いしたらそのあとも『さん』付けになってしまうことがほとんどのはず。

会ったこともない人を呼び捨てするということは、ある意味相手からの距離の遠さと同義でもあるのです。

こうした距離の遠い芸能人や有名人もある種の『記号』であり、ほぼ架空のキャラクターと同じような感覚で評論しているのだと思います。

つまり、人は常になにかに怒りたい生き物であり、『記号』になった瞬間、規模の大小に関わらず怒りをぶつけていいレパートリーに入ってしまうということ。

もはや批評によって何かをよくしたいというよりも、自分の感情の発露として怒っている人の方が大多数なのかもしれません。

では、人はなぜニュースや有名人のミスに怒らずにはいられないのか。

それは感情の発露の中で、怒りが一番楽な出力形式だからなのかもしれません。

人に何かを伝える上で、私たちは言葉や表情、ボディランゲージなどを使いますが、テキストのみで伝えようとした場合、もっとも少ない思考で発露できるのが怒りや不快感といった感情です。

怒りはもとを辿れば悲しみや寂しさに行き着きますが、それを言語化するのは難しく、また大人になればなるほどそうした感情の柔らかい部分には触れずにやり過ごそうとしてしまうもの。

そうした思考の放棄が怒りというかたちでわかりやすく表現されているのかもしれない、とネット上での怒りの渦を見ながら感じることがあります。

以前、美輪明宏さんが
すぐに怒る人は自分の思いや感情を伝えるための言葉を知らないから癇癪を起こしているだけ
という趣旨のことをおっしゃっていましたが、たしかに理路整然と説明することに長けた人で怒りっぽい人を見たことがありません。

さらに、思考が深い人たちは怒りの対象を記号として短絡的にとらえず、その裏にある仕組みや人の感情に対しても丁寧に考察している人が多い気がします。

もちろん、自分が不快に思ったことや義憤に駆られたことへの感情の動きは素直に捉えるべきですが、大人になればなるほどそれを短絡的に発露せずm理性的に対処する力が求められていくはず。

自分は今何に怒っていて、その感情の根底には何があるのか。

常に自分の感情と向き合い、それを言語化して整理することを怠らずにいたいと思うここ最近です。

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